心は逆円錐形 頭は円錐形

皇子山公園の桜

本を読んで、その本を書いた人の言うことを理解するには、まず読む側の「自分」を消さなければならない。ーーーこんなしんどい思いを引き受けてまで「本を読もう」と思う人間は、どれくらいいるのだろうか?

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「その初め、たいした重量のなかった”自分”が、本を読むことによって確固とした存在になった」と思ってしまったら、本というものは、その「自分」をよりよい方向に導いてくれるもので、「自分」を肯定してくれるものだと、錯覚するようにもなるだろう。そういう人はいつの間にか、「本を読む」ということが、「自分とは違う考えの人間の言うことを頭に入れて、理解すること」だというのを忘れてしまうだろう。「本を読む」ということに慣れてしまった人は、本というものが「本を読む自分の考えを肯定してくれるもの」と思いがちになるーーー別にそんなことはないのに。

“橋本治という考え方 What kind of fool am I” (橋本 治) P.39

主語を本から友人に変えてみる。あるいは、会話にしてみようか。seek objective adviceと歓迎しつつ、実体は逆円錐形だった、なんてありうる。閉じている。自覚した偽善と無邪気な善意。良悪正誤の偏見がコレクションされて、やがて常識へと化けた。

専門家は、自分の扱う分野に関してなら、一通り以上のことを知っている。その上で、「初心者のための入り口」がどこら辺にあるかも理解しているーーーだから「初心者が分かりそうなところ」をスタートラインにする。ところがこの私は、なにに関しても「専門家」ではない。「こりゃなんだ? 分からない」というところから思考をスタートさせるから、その自分の「扱う範囲」がどれくらいのもので、その分野のどこら辺にあるのかが、まず分からない。「そんな面倒なことは分からないから、ここだけに限定して、まず自分が分かりそうなここを片付けることに専念しよう」と考える。

“橋本治という考え方 What kind of fool am I” (橋本 治) P.12

問題を設定する能力が衰える。それが馬齢を重ねることだ。経験の試練に耐えられず、疑似体験したがる。問題を20日で解決しなければならないとしたら、私は19日かけてその問題を定義する忍耐、問題の主な原因は解決策にあるという自覚。