人のフリを見ているだけでは我がふりは直らぬ

琵琶湖疎水の桜

現場といえば、「臨床」という言葉を思い出す。臨床医あるいは臨床医学というときのあの「臨床」である。
「臨床」は英語で“clinical” 。クリニカルというのは、ギリシャ語のクリーニコスを語源としており、ベッド(クリネー)に臥している病人のもとに行く医師を意味する。ベッドサイドに赴くということ、それがつまりクリニカルということである。

いまの臨床現場では、逆に患者が医師のもとを訪れる。臨床医は診察室に座ったまま、「次の方」というふうに患者の来室を待つ。往診というのもないではないが、めったになされなくなった。
診察のための装備が立派だからということもあるのだろうが、それにいまなら過重労働ということもあろうが、ならば臨床医ではなく病院医と名のったほうがいい。
入院すれば回診もしてもらえようが、そのベッドは病者がふだん臥している寝床ではない。

via: 鷲田 清一 – 新聞案内人 :新s あらたにす(日経・朝日・読売)

阿呆なので”iPhone for everybody”を読んでもわからない。質問事項を3つ書き出しソフトバックショップへ向かった。店内へ入ると、いきなりノイズが聞こえた。どうやら昭和21年生まれのおじさんが、店の電話を使ってSoftBankのカスタマーセンターあたりと何やら通話しているらしい。個人情報を店内に響き渡る大声で伝え、まぁ、贔屓目に見ても横柄を捌いていた。

整理券をとって座って5分、話は終わらない。大声は響き渡る。ぞんざいな口のききよう。

人の振り見て我が振り直せ、という。それは、他人を対象化するなという戒めかと考えるようになった。今までなら、うるさいなもう少し丁寧にしゃべったらどうだ、と胸中で悪態をついていた。だけど、それは対象化してしまっている。そんなふうに気づいた。おじさんの要素を自分も持っている。それを僕が認識していないだけだ。コワイなと。たぶん、それを完璧に認知できなくなったとき、「最近の若者は」という1000年以上前から使われているフレーズが口からこぼれる。近づいている。一歩一歩。馬齢を重ねるとはそういうことだ。いつまで抗えるか。

どこにいてもそうだけど、「民度」は予測不可能な方角からやってくる。予測できる民度などたかがしれている。「民度」を思考から排除してはいけない。先と同様、僕も同じ「民度」であるかもしれない。それを自己評価しようとすれば、もう一人の自分と出会う。自分を背後から見つめる視座。一つの視座では足りない。自分を多重化する。そして、それを突き詰めていけば無限に突き当たる。ゆえに、無限は僕を魅了する。

自分から出発してもう一人の自分を想像し、それを疑い、さらにひとつ、疑い、そして、またひとつ、やがて無限。無限は時間と空間を僕の目の前に提示し、誘惑する。

そんなことを巡らせ10分ほど頭の中で遊んでいると、おじさんの話は終わらない、店の人は待たせているという認識を持っていなさそうなので、整理券を返して帰宅した。

時間を快楽消費してよい体験をした。