Wikiでwikiwiki 過去を蓄積

JR京都駅

あたりまえの話だが、形態学で形を見る。考えてみると、この”見る”という作業は、案外難しい。科学では、虚心に見る、ということはあまり無い。むしろ、”経験”、”偏見”ないし”理論”に基づいて見る。

[…..] 既知の”意味”にもとづくだけで物を見ていれば、新しい発見はない。見慣れた現実が、新しい意味を帯びるのは、観察するわれわれの側に新しい視点があるからである。新しい視点は、しかし、虚心に物を見ることから生まれることがある。ここのところが難しい。意味と新しい発見との間には、協力関係と緊張関係とがあり、こうした関係は本来、自然科学のような経験科学では、作りつけのものだ、と考えざるを得ぬ。

これは、もちろん、日常の生活でも同じであろうか。”見る”ということの奥行きは深い。

“脳の中の過程―解剖の眼 (哲学文庫)” 養老 孟司

昨年の第四四半期からあるドメインでYukiWikiを運用している。そこには、クライアントの歯科医院がミーティングやブレインストーミングの記録を残している。当初、書いてくださいねとお願いしても残らなかった。もちろん、そんなカンタンに事が運ぶとは想定していなかった。僕は待った。ミーティングに出席すれば、僕が書き、出席していない時、記録が残されていなくても何も言わなかった。半年、長ければ1年は要すると見込んでいた。Wiki独特の文法やインターフェースの慣れが「書くこと」を妨げているとしたら、HowToだけ教えればいい。だけど、そうじゃないと推察していた。自己高揚。動機。理由。意味。

その後、僕の見込みははずれた。すごく嬉しかった。僕は外からアクセスして読んでいる。ネットがつながればどこからでもアクセスできる。読むといっても、あくまで確認しているだけ。そこから何かを判断するのは愚かだ、と認識している。僕は、毎回毎回ミーティングやブレインストーミングへ出席していない。現場のライブを知らずに文字面だけ読んでわかった風にふるまうのを拒絶したい。

記録が残って半年、過去のログを読んでいると興味深い。「書く・継続・蓄積」されたテキストは、問題や課題を浮かび上がらせる。だけど、それらも安易に現場に放擲してはいけない。僕の独断は雑務を増やす危険をはらむ。

じゃぁ、何が興味深いの?

言葉。何度か登場する言葉。キーワード。知行合一の履歴。試行錯誤の足跡。院長先生やスタッフの方々が手探りしていると想像する。過去から現在に至る記録。未来への布石。投資。「書き手の思考」は情報を濾過する。「選別された情報」が生き残る。「どうしてその情報を選択したのか」という視点から僕は吟味する。残されなかった音声は何か。

アイデア。思いつくままに書いたアイデアが「文字」のまま残り、忘れ去られようとした矢先、再度スポットライトが当たる。アイデアが採用された背景へ耳を傾け、見なければならない。医院が現象を認識して問題を抽出し、実践へと昇華させる過程を評価して、現場へフィードバック。それが僕の役割。第三の眼。

現場と交わる濃度が濃すぎても薄すぎてもダメ。濃度を調節する。濃度を認知する。Wikiが活躍してくれる。否、Wikiは手段。「書くこと」が僕の思考へ行動の種子を植え付ける。書いているのは誰か。忘れてはいけない。激務の中、記録してくださる。肝に銘じなければならない。

「書くこと」のために時間をつくる。時間をつくるために削る。まだまだ僕は役割を担っていない。削れていない。ミルを実践しなければ。楽は楽しい。