月別: 2009年4月

混乱状態

琵琶湖

<<得意>> 人が自分の力と能力について造影することから生じるたのしみは、得意 GROLYINGとよばれる精神の高揚である。それは、もしかれ自身の以前の諸行為についての経験にもとづいているならば、自信 Confidenceとおなじであるが、<<うぬぼれ>> もしそれが、他の人びとの追従にもとづいたり、あるいは、それの諸帰結のよろこびのために、かれ自身によって想定されたにすぎなかったりすれば、うぬぼれ VAINE-GLORY[むなしい得意]とよばれる。その名辞は、適切に与えられている。なぜならば、十分な根拠をもつ自信は、くわだてを生みだすのに対して、力があるという想定はそうではなく、したがって、正当にむなしいとよばれるのだからである。

『リヴァイアサン (1)』 T. ホッブズ P.107

町屋の顔

珈琲カップ

半熟玉子を手で割って、トロリとした黄身のところがおいしそうと思いながら、軽くすった胡麻をふわっとふりかけ持っていく。
すると、手が伸びて、スタイリストのTさんがテーブルの上に置く。H氏はすでにレンズをのぞいていて、すぐにシャッターを押し始める。彼の視線の矢印は、きっと黄身のところにささっている。
次の料理の準備をしていてふと気がついた。

『帰ってから、お腹がすいてもいいようにと思ったのだ。』 高山 なおみ P.195

秋に行事が控えていて幹事をまかされている。その関係で奈良へ行く機会が増えそうだ。来月も行く。高校生の頃から京都へはよく出かけた。凝っていた時期は毎週出かけた。でも、奈良へはなかなか足を向けなかった。

奈良「県」の由来を読んだり町屋を散策していると、京都や大津の町屋と違う顔だと認識した。あたりまえなんだけど。文化遺産に目を奪われそうになるところをぐっと堪えて、町屋と生活に目と耳を緊張させる。

建築や木、歴史の知識を持っていたら違う楽しみ方もある、と思う。そういった分野に無知だから、目の前に広がるデザインをせめてそのまま受け入れようとゆったり過ごす。自分を楽しませ、他人を楽しませる。コンテンツを読解してプレゼンする力。演出。時間と空間の配慮。難しい。

外に出た自分を見るのは誰

桜

人間には自分の自由と不自由とを自覚し分別し煩悩する自由がある。これは他のいかなる存在ににも見られぬところである。その上、その分別性のゆえに、他の自由を尊重し、他の不自由を共感する。煩悩(この場合ボンノウとよまぬことにする)する。つまり人間には、自分の外に出てまた自分を見ることができるはたらきがある。このはたらきの故に、人間は、自分らの社会集団だけでなく、自分以外の他の生物でも無機物でも何でも一つにした絶大の社会集団を認めることができる。

『新編 東洋的な見方』 鈴木 大拙 P.69

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結界が決壊して陥穽が待っている

奈良町屋のカフェ

鹿に鞍をつけて、皇帝に献上し、「この馬にお乗りになって下さい」と言います。皇帝は、「これは馬ではない。鹿である」と答えました。趙高は、「そう思われるのでしたら、宮中の大臣たちを呼んで、鹿、馬のどちらかであるかを尋ねてみて下さい」と言います。皇帝が大臣や貴族をことごとく呼んで質したところ、全員馬ではないことはわかっているが、趙高の力を恐れて、「馬です」と答えました。皇帝が鹿と馬の区別について真剣に悩むようになったのを見て、趙高は、「これで俺に逆らう者はいない」と考えるようになります(『太平記』巻二六)。

『獄中記』 佐藤 優 P.280

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lose flesh

琵琶湖

先日、2,3年ぶりにお会いした方々から痩せたと指摘された。本人は自覚しているつもりだったけど、どうやらそうでもないみたいだ。というのも、被写体が自分の写真を現像してみて驚いた。構えた姿じゃなく他人としゃべっている姿だったので、これが「日常」だろうと仮定した。すると、自分が抱いている自分の全身像と写真の像に差異があった。微小な差異。

今年の話だと思うけど、ある方から「小さくなった」と言われた。その時は、「えぇ−」としか返せなかった。あとから「人間がですか?」と尋ねたら気が利いていたのにと悔しがったけど。なるほど、「小さい」とは言い得て妙だ。得心。

僕は、自分の姿を「もう少し厚みがある」と認識していた。一度、そう固定すると、鏡を見ているようで見ていないのだ、とわかった。実際は、薄くなっていた。この場合、薄くなっていたというのは、「引き締まった」のニュアンスを含まない。まるでカンナで削り取られたような感じ。

鏡を見ているようで見ていないと書いたけど、それは身体だけでなく、顔もあてはまる。これも先日の話、自分の顔を鏡で見ていて、「ええ、オレ、こんなにシミがあったかいなぁ」と鏡の自分へ話しかけた。びっくりした。シミを承知していたけど、シミの数というか、顔とシミのバランスがおかしいというか、とにかく違和感だらけだった。

これも身体と同じ。自分が想定している顔と鏡に映った顔に差異があった。差異と表現するのはおこがましいか。まぁ、錯覚。見ているようで見ていない。そういった発見、否、馬鹿な気づきが妙に多くなった。

uncategorizable something

芝桜?

さまざまな動物の分類を吟味すると、それぞれの大きな群のうちに、多彩ではあるが何となくわけのわからぬ動物種を含む一群がたいていは設けられており、分類学者は一般にこうした群を「屑カゴ」ないし「ゴミ溜」と呼ぶ。「整理学」という書物を参照すると、整理の要諦は、「未整理」という箱を必ず設けることだ、と書いてある。分類が自然に存在する動物群をある一定の見方で整理するものである以上、どのような仕方で自然から群を切り取ったとしても、そこに「ゴミ溜」が残るのは止むを得ず、あるいはむしろ自然なのである。それは、ある特定の見方をとる、ということの当然の帰結、といったほうがよいかもしれない。

『ヒトの見方』 養老 孟司 P.284-285

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