[Review]: 臨床とことば

臨床とことば―心理学と哲学のあわいに探る臨床の知

聴くということはしかし、とてもつもなくむずかしい。語りは語りを求めるひとの前ではこぼれ落ちてこないものだからである。語りはそれをじっくり待つひとの前でかろうじて聞かれる。「言葉が注意をもって聴き取られることが必要なのではない。注意をもって聴く耳があって、はじめて言葉が生まれるのである」と、かつてわたしは書いたことがあるが(『「聴く」ことの力』)、じぶんがどんなことを言おうとも、そのままそれを受け入れてもらえるという確信、さらには語りだしたことを言おうとも、そのままそれを受け入れて問題にも最後までつきあってもらえるという確信がなければ、ひとはじぶんのもつれた想いについて語りださないものだ。

“臨床とことば―心理学と哲学のあわいに探る臨床の知” (河合 隼雄, 鷲田 清一) P.210

『「聴く」ことの力―臨床哲学試論』は2007/05/21にレビューした。その後も都度読み返し、寝酒代わりにパラパラとめくってる。03/15に臨床哲学の研修に参加して「言葉を壊す難しさ」を痛感した。日常の単語を壊せない自分。そこから出発した。そもそもから始めてみようと。

はじめに河合隼雄先生が臨床心理学と臨床哲学について書いている。臨床の知とは何かにふれている。15ページの短い論考とはいえ、「聴くこと」の意義を再認識できた。「言語とイメージ」の関係、語りを見守る態度、言語と非言語の狭間、人と人との間の「距離」、それらは対話に欠かせない。

そして、河合隼雄先生と鷲田清一先生の対談が始まる。 その中に登場した「言葉をほぐす」という鷲田先生の表現。驚いた。03/15の研修で使ったばかりだったからだ。言葉を壊す、言葉をほぐす、なんて何を表現しているのか。もし、言葉の役目は内容をきちんと伝えること、と定義するなら役目を果たしていない。言葉を壊すや言葉をほぐすは、言い方や言い回しに凝っているだけだ。そう自己認識してもなんだかしっくりきてしまう。

「臨床哲学」という単語。専門家は「臨床哲学」を専門領域の中で壊す。鷲田清一先生がグループではじめた臨床哲学は、養老孟司先生の『臨床哲学』と違うだろう。

臨床哲学というのがあるのだろうか。私は哲学には素人だが、哲学を横から見てときどき何か言いたくなる。それは患者が医者に文句を言いたくなる心理と同じようなものかもしれない。以前、「馬鹿の壁」なるものについて論じたことがある。これは、哲学者が人間の理解力をどう考慮に入れて仕事をしているか、に関するものだった。医学では基礎は冷遇されているが、哲学では臨床が冷遇されている。おそらくそんなことが気になっていたのであろう。

“臨床哲学” (養老 孟司) P.9

哲学者が名前を出さずに看護婦や小学校の先生、あるいは会社の人たちと話する。苦労したことは「言葉のすり合わせ」。哲学者が使う言葉と一般人が使う言葉、その意味やニュアンスを両者はわからない。態度も異なる。鷲田先生は「原因と理由」と発話する。それは、僕が抱いていた「原因と理由」と異なった。結論が出なければはがゆい一般人と答えが出ないほうが気持ちいい哲学者。両者は1年の時を経て、気がつけば「言葉のキャッチボール」ができるようになっていた。互いが待つ。言葉がほぐれる。

そういう哲学的な試みを臨床の現場は、なかなか取り込めない。取り込めないではなく、取り込む隙間がない。臨床は一回性。個別性と偶有性に満ちている。同じシーンは再び訪れない。河合先生の相手が、「先生、僕CIAなんです」と物語を語ったとき、どう反応するか。

鷲田清一先生の哲学的な問いと河合隼雄先生の臨床的な応答。読み進めると、河合先生が四次元で仕事をしているような気分に陥る。「聴く」ことの困難を超越しているかのよう。それを鷲田先生が三次元へ僕を引き戻してくれる。

対談は、「聴く」という僕の言葉を粉砕した。ルービックキューブの一面が揃いかけていたのにバラバラにされた気分。「聴く」とは一体何なんだ。

「聴く」ことの前後に挿入される語り。僕が他人の前で語る。僕がブログの前で書く。書き始めの考想が内容と違うことなんてしばしば。論理破綻している文章はざら。書きながら誰とも知らない「相手」としゃべる。

これでいいか、これが本心か、ウソとマコトの化粧か。自問自答。

「相手」には自分も含まれ、自分を多重化する。揺らぐのだ。揺らぎは不安定と連結し、不安を増幅する。

書くという行為でそうならば、語りはさらに揺らぐ。多重化する。なぜなら「声」が存在するから。僕は発話した声を自分の耳で聴き直す。僕は常に遅れて自分のもとへやってくる。語りの着地点を見いだせず、語れば語るほど、私へと自分の皮をむき始める。

先の見えない道を走る不安。危険。危うい姿。背後から眺める。見えない顔、聞こえる声。身振り手振り。相手の眼。

語りは自分をさらけ出す。聴くは待つ。時間を重ねる。聴くは言葉を迎えてはならない。言葉の能動性を奪ってはいけない。語りは言葉の宛先として、相手の五感を登録する。五感を登録できれば、すなわち言葉の宛先として相手から承認されたと認識できたとき、「ことば」は生まれ、語りはじめる。