フリをする人、確固たる自己の人

皇子山公園の梅

考えてみれば、人間はみな<ふり>をして生活している。[…..]たとえばAさんがBさんに接するとき、AさんはBさんに感化されてA1という人格の<ふり>をする【(A)A1→B1】。

わたしたちが日々接している他者は複数存在するわけだから、したがって、Cさん、Dさん、Eさんといった他者との関係性の中で次々に新たな人格が現れることになる【(A)A2→C (A)A3→D (A)A4→E】。Aさんは接する対象に合わせて<ふり>をして、A1さんにも、A2さんにも、A3さんにも、A4さんにもなり得るわけだ。

“化粧する脳 (集英社新書 486G)” (茂木 健一郎) P.31-32

昔、これと同じ話をした。相手はコメントを書いてくださるEさん。僕が見ているEさんはE1で、他の人が見るEさんはE2, E3かもしれないと例えた。そして、E1,E2,E3の上にいる統合された(Eさん)を僕は想像していると述べた。

僕は八方美人に違和感を抱かない。Eさんへ語ったとおり考えるから。<ふり>を纏っているからだ。僕自身が八方美人だから自己防衛が働いている、と自分で認識している。でも、腑に落ちない人はいる。その中には、「確固たる自己」を持つ人がいる。そういう人は八方美人へ嫌悪感を示したり、眉唾の視線を送信する。違和感を抱かない人、抱く人、どちらもありうる。

僕と「確固たる自己」を持つ人に問題はない。ただし、第三者が登場すると、問題が生じかねない。

三角形で考える。僕と「確固たる自己」を持つ人の二点を結ぶ。二点を結んだ直線が底辺。僕は左辺側の点。そして、第三者が現れた。第三者を頂点とする三角形。正三角形や二等辺三角形、三角形の形はいろいろ。三角形の形は、3人の距離によって変化する。

もし、僕と第三者が<ふり>をすれば、二点の距離は近い。他方、僕と「確固たる自己」を持つ人との距離は遠い。左辺の距離が短い三角形を描ける。あるいは、第三者と「確固たる自己」を持つ人の距離が近くなれば、二等辺三角形へ近づく。あれ、高さはどうなるだろう? うーん、高さは何を象徴しているのだろう?

じゃぁ、問題は何か。底辺の二点は頂点を知っている。僕から見た頂点はA1。他方、「確固たる自己」を持つ人から見た頂点はA2。すでに違う。僕にとってはあたりまえ。だけど、相手にとってあたりまえではないかもしれない。それを知る由もない。A1とA2の差異を底辺の二人が受け入れて三角形を維持できればありがたい。だけど、現実はそう易しくない。

三角形の3点が一堂に会した。頂点A1とA2の差異が際立つ。右辺の人はやがてA1とA2の差異に我慢できず、僕との距離を離していく。僕も理解できず腹を立て距離を加速的に離していく。僕と「確固たる自己」を持つ人だけなら何もなかった日常に変化の兆し。そして、頂点の人は、左辺と右辺からA1,A2と受け止められているのを肌で感じ悩む。そうやって三角形はいつしか壊れていく。

僕は自ら三角形を積極的に壊していく。かと思えば、頂点と(だけ)結ばれたくて懸命に維持する。最適な形は、3点の誰にもわからない。メタな人が舞い降りて審判してくれてようやくメタ認知できるかもしれない。

ただ、僕が鈍角だったらどうしよう。それが恐い事象なのか、あるいは受け入れられる人格なのか、否、そもそも鋭角を想定して今まで書いてきた「自分」は一体何だろう。馬鹿丸出しだな。