象徴のラベルは個々の名前

GIOS PURE FLAT

西大津から唐橋を渡って対岸へ行き、近江大橋を通ってまた西大津へ。1時間30分ほど走った。琵琶湖は晴れ、対岸もくっきりしている。だけど、僕の網膜は黄土色の膜を貼られたかのよう。今日の景色は色の三原則を失ったみたい。

すべての境界は、自然のままでは連続していて切れ目のないところに切れ目をわざと入れた人工的な分断であり、また、この境界自体にそもそも内在する曖昧性が不安や紛争のたねとなるという原則を述べたが、空間に対してばかりでなく時間に対しても、これは当てはまる。

“文化とコミュニケーション―構造人類学入門 (文化人類学叢書)” (エドマンド・リーチ) P.73

GIOS PURE FLATで走る。スピードが景色の画角を変化させる。広角と鋭角のリピート。人間が作ったものを何であるかと認識する。そこには個々の名前が付けられ、象徴のラベルがはられている。

途切れなく続く連続体を、視覚は意味のある対象に区切る。視覚は区切った対象をばらばらにして構成要素を分類する。分類された要素を関係づけるとき、僕は言語を欲しくなる。

前からやってくるFUJIのピスト。LOUISGARNEAUのクロスバイク。Cannondaleのロードバイク。ママチャリは「自転車」と一括りにしてしまい、視覚は無関心。ピスト、クロスバイク、ロードバイクと分類できる自転車へ五感は反応する。このへんに認識と分類のとっかかりがありそうだ。服装や形状、乗車の姿から予測している。無意識か、意識か。

何を視ようとしているかより、何が眼に映るか。それを「自然に」知覚できれば最高だ。難しい。それがとても楽しい。おもしろい。