What is I?

皇子山公園の梅だと思う

昨日、夕方からミーティング。先方から「呑みながらやろう」とのお誘いを受けていたのでいそいそとお店へ足を運ぶ。はじめの一杯を乾杯した後、ニッコリとおっしゃった。

「ブログを読んでるよ。奥が深いね」

どんな人が読んで、どんなふうに受け止めているかを確認する機会はめったに訪れない。だから確認できてよかった。03/04に書いたひとを<嫌う>ということの内容がいたく響いて、さっそく本を買って読んでいるとの由。

どうしてか?と伺ったら、「なぜ伝わらないのか」に悩まれていた。もちろん、自分の言い方や表現、感情的にならないように直言を避けた言い回しなど、「自分の側」を充分に検討された上で、どうも相手に伝わっていないような感触を得た、と説明してくださった。

そんな矢先、「何を言ったかより誰が言ったか」という言葉が琴線に触れたようだった。03/16のブランドのデザインでも書いたように、今、耳をかざせばあたりまえのことを身振り言語と修辞や技巧で上手くまとめあげて説得する喧噪が聞こえる。表面的な正義、もっともらしい倫理、あるいは書籍や先人の教えを剽窃した纏めノート、そんな「あたりまえ」たち。僕も自分がしゃべっている内容を自分で聞いて、後からくだらないことを話したとげんなりする。聞き手は耳を傾けて頷く。聞き手は「誰が」を無意識にインストールしている。僕は「誰が」を意識的に排除する(したい)。「何を」に耳目を属す。意識的の源は嫉妬。嫉妬が排除してくれる。時には嫉妬も役に立つようだ。

河合隼雄先生がアメリカで「What is I?」という講演をした時、あなた方は「Who am I?というのは得意で”I’m a psychologist”と答えるけれど、What is I?と聞いたら答はほとんどわからないでしょう」とおっしゃった。「I」はそんなに簡単ではないと。

僕はこの話を読んで驚いた。というのも、ステロタイプな日本人の例として、「日本人は自己紹介するとき、すぐに所属している会社や自分の仕事の内容を話す」と見聞していたから。「○○の何某です」という自己紹介。○○には会社名や肩書きが入る。

他方、欧米は、「何某とだけ名乗り、ホビー(日本の趣味という意味じゃなく)やワーク(日本の労働・作業という意味じゃなく)について語る」なんて思い込んでいた。それで吃驚した。

「誰が」を否定しない。むしろ、河合隼雄先生のカウンセリングでは「何を」と同じ、あるいはそれ以上に「誰が」を注目しなければならない、と僕は思う。ただ、特定(あるいは特異?)な条件を除けば、特に「日常」を話すとき、「誰が」は思考の邪魔になる。

目と耳は人の職業や属性に反応し、そこから得られるイメージをフレームにはめ込み言葉を判定する。それを強く自分へ戒める。礼儀・礼節を探求すれば、属性は関係なく、いかなる人にも丁寧な言葉を使えるはず。そして、耳を傾けるはず。

学んできた年数や量など関係ない。思考の総量が導出した躰から溢れる言葉と態度で判断できるはずだ、と自分へ強く言い聞かせる。

「誰が」を綺麗に取り除けたとき、はじめて「対等」が対話の中に姿を現すような気がする。気がするは願望であり、果てしなく錯覚に近いのだろうけれど。