言葉のサイズが合わない

大津京のプリュス

専門用語や学術用語を使うとき、言葉のサイズを意識しているのかどうか。言葉のサイズ、まるで服のサイズのように合っていない発話と出会う。服のサイズは、流行が決めるから、身体のサイズと一致しなくても奇異の感を抱かれない。まるでちぐはぐだったり、ぶかぶかだったり、あるいはヒップが膝ぐらいにあっても、流行が免罪符を与えてくれる。

だけど、言葉のサイズは流行と距離を保たなければならない。あえて「頭と身体」の話を少しばかり。頭で知っている用語を発話したとき、当の人が身体で理解していなかったら、自分の発声が形づくる前後の文脈へ疑問を抱かない。いたわらない。自問自答が欠落した脈絡。

昔、顔から火がでる思いをした。コンサルタントにあこがれて、経営者が集まる合宿へアシスタントとして出席させてもらった。講師のサポートと合宿運営のお手伝い。もちろん、経営者の皆さんは、僕をコンサルタントのはしくれと認識していた。そこでの一幕。ある社長が、在庫の質問を僕に投げかけてきた。

その時、僕は、「一言」で切り返せなかった。相手の財務状況や管理方法がわからないのに安易な回答をできないと思ったからだ。そしたら隣で聞いていたコンサルタントが、「一言」で切り返した。「社長、それは戦略が問題です!」と。社長は、「なるほど」と頷いた。

僕は、一瞬、漫才でも観ているのかと自分の目を疑ったけど、眼は正常に機能していた、と記憶している。それに、おそらくコンサルタントの発声のテンションを考慮すると、”!”は付いていただろう。25,6歳の頃だったから、「社会人の冗談ってこういうもんなのかぁ」と茫洋たる光景に微笑んでいた。

言葉を使って聴くとき、「私が何を聴きたいのかを伝えなければならない」と、僕は考える。「聴く」ために「伝える」という所作。傾聴すればいいのじゃない。「何を」を正確に伝えなければならない。難しい。聴く意図を相手は正確にスキャンできるか、なんてわからない。コントロールできない。知る由もない。もう混沌だ。

仮に許されるならば、もし、誰が耳にしても「同じ意味」と受け取る単語が100個あったしよう。それですべてを聴けるかどうか試してみたい。そういう言葉遊びに戯れて、その危険を頭にこびりつかせて、身近な人に試してみる。もちろん、失敗して、ややもすれば「関係」を損なう。そこまでして「身体」が言葉のサイズを記憶する。

先日も己を呪ったばかり。疑問点をいくつか列挙してメールで質問した。相手からの返信を読んで、自分の伝達能力の低さを嘆いた。意図した事柄がまったく伝わっていない。解決しなければならないから質問したのに、さらに混乱を拡大させた。何度も何度も自分が書いた「質問」を読み直した。文章のてにをは、主語と述語、動詞、単語の意味、それらを検討した。そして、「なぜ、相手はこう回答したのか? どうすれば、そう読み取るのか?」と悩んだ。

誰が耳にしても同じ単語なんて「ない」という前提に立って僕は聴く。それでちょうどよいぐらいだ。「それ」で「ちょうど」よいと感じているから、専門用語や学術用語、それとかコミュニケーション、今なら国策捜査、なんて言葉が3分に1度ぐらい登場したら、警告ランプが頭の中で点る。

だから(何がだからなのか割愛するけど)、本来なら「哲学する」なんて言葉は「日常語」であって、頻繁に使えばよいと、天の邪鬼だから放言するけど、事は上手く運ばない。「マーケティング」をクールに口ずさんでも驚かれないけど、「哲学する」なんてスマートにしゃべったら、もう”おしまい”だ。

居心地がよろしくない、ちょっぴり世知辛い。