[Review]: ひとを<嫌う>ということ

ひとを“嫌う”ということ (角川文庫)

私がこの歳になって心から望むこと、それは夫婦とか親子とか親友とか師弟、さらには知人とか職場の同僚とかの「嫌い」を大切にしてゆきたいということ。そこから逃げずに、嫌うことと嫌われることを重く取りたいということです。どんなに誠心誠意努力しても、嫌われてしまう。どんなに私が好きでも、相手は私を嫌う。逆にどんなに相手が私を好いてくれても、私は彼(女)が嫌いである。これが、嘘偽りない現実なのです。とすれば、それをごまかさずにしっかりと見据えるしかない。それをとことん味わい尽くすしかない。そこで悩み苦しむしかない。そして、そこから人生の重い豊かさを発見するしかないのです。

“ひとを“嫌う”ということ (角川文庫)” (中島 義道) P.224

著者が中島義道先生、解説は岸本葉子さん、とくれば買い。レジへ直行。「何を言ったかよりも誰が言ったか」に人は注目し、判定する。それを30歳前後で意識するようになった。37歳の今、「何を言ったかよりも誰が言ったか」への理解のとば口にようやく立った。

ここ数年、強く感じる。両者の言い分を抽象化すれば同じ内容を話しているにもかかわらず、聴衆は、片方にYESを与え、片方にNOを突きつける。説明の仕方、声の抑揚、身だしなみ、顔の表情、過去の行動、履歴などなど、「判断」の基準ではない情報を優先的に選択して判定する。僕はそれに気づいていない。「何を言ったかよりも誰が言ったか」を無意識のうちに「基準」にしてしまっている。わかりやすい情報への傾斜。思考停止。

「何を言ったかよりも誰が言ったか」へ意識が向く。その根底に流れるのは、「嫌い」。ひとを<嫌う>ということ。それに向きあっているだろうか。

「嫌い」と向きあわず、「嫌い」を認めず、自分に非がないように否定する。たとえ論理的に正しく導いた結論であっても受け入れない。でも、「嫌い」でない人から説明されれば、納得する。たとえ、論理的に破綻している内容だとしても。

「すべての人は好きになれない」という大前提から出発すること。それが、<嫌い>の始まり。この大前提を受容しているだろうか。否、避けている。ゆえに、各人の微妙な差異、どうしようもない差異を認められない。非難、あるいは均一化を試みる。

大前提から出発すれば、どんなに気の合った他人が厭な点をいくつか持っていても、そのまま記録すればいい。不快を避けず、不快を体験し尽くす。個人間の微妙な差異を非難しない、均一化しない、同化しない。たとえ、蛇蝎の如く嫌う不快であっても、そのまま記録する。

先生は、「嫌い」には概念があり、初段階があり、そして原因があるという。嫌いの原因を探ると、

  1. 相手が自分の期待に応えてくれないこと
  2. 相手が現在あるいは将来自分に危害(損失)を加える恐れがあること
  3. 相手に対する嫉妬
  4. 相手に対する軽蔑
  5. 相手が自分を「軽蔑している」という感じがすること
  6. 相手が自分を「嫌っている」という感じがすること
  7. 相手に対する絶対的無関心
  8. 相手に対する生理的・観念的な拒絶反応

があるらしい。先生は8つの原因を丹念に説明してくれる。事例や過去の人たちが抱いた「嫌い」を引用して「哲学」する。8つの原因を理解できたとき、最後に訪れる<嫌い>が、「自己嫌悪」。徹底的に「嫌い」を考え抜く。「嫌い」を認める。

どうしてこんなにも「嫌い」 を探求するのか? 岸本葉子さんは端的に解説してくれた。

現代日本では、「嫌い」という感情を暴力的に押しつぶすことに余念がなく、そのため「嫌い」を自他のうちに発見したとき、人々は狼狽し、ありとあらゆる仕方で(欺瞞的にも)抹消しようとするような気がします。この本の「はじめに」で著者が示しているように。

“ひとを“嫌う”ということ (角川文庫)” (中島 義道) P.234 解説より

人々は狼狽しありとあらゆる仕方で抹消した、としても、それは個人の微妙な差異だ。僕はそれをとやかく言える筋合いじゃない。本人はそれで結構だと考え、思い、あるいは何も考えていなくても、それを不快だと記録しよう。

「すべての人は好きになれない」という大前提から先生は出発した。僕は、そこに「すべての事柄に関心を持てない」という認識を付け加えたい。嫌いと無関心を徹底的に追い求める。そして、「嫌いを骨の髄まで実感する豊かさ」を感じ始めるとしよう。

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