[Review]: 禅と日本文化

禅と日本文化 (岩波新書)

精神の重要さをあまりに注意・強調すれば、形式無視という結果をきたす。「一角」様式と筆触の経済化もまた、慣例的(コンベンショナル)な法則から孤絶するという効果を生ずるのである。普通なら一本の線、一つの塊(マス)、平衡翼(バランシング・ウイング)を予測するところにそれがない、しかもこの事実が予期せざる快感を中心に喚びおこすのである。それらはあきらかに短所や欠陥であるにもかかわらず、そうは感じられない。事実、この不完全そのものが完全の形になる。いうまでもなく、美とはかならずしも形の完全を指していうのではない。この不完全どころか醜というべき形のなかに、美を体現することが日本の美術家の得意の妙技(トリック)の一つである。

“禅と日本文化 (岩波新書)” (鈴木 大拙) P.16

第一章で「禅の予備知識」を述べた後、以下、七章まで

  • 禅と美術
  • 禅と武士
  • 禅と剣道
  • 禅と儒教
  • 禅と茶道
  • 禅と俳句

と続く。すべて、「禅と」の表題。ちぐはぐでわかりにく問答を「禅問答」と私たちは例える。禅の予備知識を読み始めて、そう例える心理に得心がいった。「禅」という概念に接近するとき、「ロジック」が待っている。

弟子が禅のお師匠に問う内容は素朴だ。一般的な疑問もある。それらに対してお師匠は、「論理家」のような答を差し出す。だけどその論理はちっともわかりやすくない。「”分別”それ自体が分別だ」とか。事実は無視され価値が顚倒する。

とにかく煌びやかな逆説に満ちている、と僕は禅に対して感じた。もうひとつ、徹頭徹尾「実践」だと。

理論化(セオリゼーション)は、何かを作るときに便利。だけど、何かを創るとき、すなわち人間の魂を表現するとき、そういうわけにはいかない。それの先端は「正しく生きる術をえんとする」だ。「正しく生きる術をえんとする」なんて、真に「伝え難き」ものであり、いわば、議論を主体とする悟性を超越している。

禅は、「言葉に頼るな」がモットーだ。言葉に頼るな、不立文字。なのに、弟子は言葉で考え、言葉で問わなければならない。このパラドックスから脱出したいなら、「実践」しかない。禅が評価するのは、「実体」のみ。言葉による体系化は、禅にとって必要ない。否、むしろ邪魔だ。

不立文字で実践した結果から得られた真理を、禅のお師匠は「ロジック」で答える。決してセオリーではない。言葉だけで近づいてこようとする弟子を奈落へ突き落とし、行動で近づこうする弟子に混沌を与える。

  • 禅は精神に焦点をおく結果、形式(フォーム)を無視する。
  • すなわち、禅はいかなる種類の形式のなかにも精神の厳存をさぐりあてる。
  • 形式の不十分、不完全なる事によって、精神がいっそう表される。形式の完全は人の注意を形式に向けやすくし、内部の真実そのものに向けがたくするからである。
  • 形式主義、慣例主義、儀礼主義を否定する結果、精神はまったく裸出してきて、その孤絶性、孤独性に還る

禅宗が日本へ伝来して、禅は日本文化と性格の形成にいかなる役割を果たしたのか。仏教(専門的になんと表現するのか知らない)が公家に支持され、禅が武士に支持されてきた歴史の背景を歩き、禅が美術や剣道、俳句に対して与えた影響は何か?

僕は、宗教を知らない。宗教に対して何かを語れるような知識をまったく持っていない。だけど、昔から禅問答だけは興味を持っていた。どうして、禅問答に惹かれたのかいまだにわからない。だけど、一つだけ納得できた。それは、「逆説」と「実践」の根底にある不立文字という意味。その意味に憧れている。だから禅問答に接近した。そして、「禅」を理解したくなった。