あんたにその能力あるの?

橋本治と内田樹

内田 最初の対談のあと、『勉強ができなくても恥ずかしくない』を読ませていただいて、その中ですごく印象深かったのは、やっぱり主人公のケンタ君が人に奉仕するときにポッと電気が点くという、繰り返し出てくるエピソードです。[…]

橋本 周りの人が好きなんです。[…]好きな人の役に立ちたいという感覚です。

内田 それは今ではすごくレアな言葉でしょう? 現代の社会で聞くことの稀な言葉でしょう。「役に立ちたい」って。最近、聞かないですよ。

橋本 まぁ、私が妙な人だからね。そんなことで驚きもしないですけど。

内田 いやあ、でも…..。

橋本 逆にボランティア志向とか福祉の仕事に就きたいとかいう加工されたレアはいくらでもいるじゃないですか。

内田 でも、あれは聞いていて、違和感があるんです。ボランティアとか、介護したいとか、スクール・カウンセラーになりたいとか。その子たちの身体が、動いてないんです。動くんじゃなくて、まず観念があって…..。

橋本 あんたにその能力あるの? という、そこから始まらなきゃいけないんです。役に立ちたいと思ったとしても役に立てないんです。それでいうと、俺、春先になると道っぱたにハコベが白い花をつけているのを見ると、すごく感動するんですよ。

“橋本治と内田樹” (橋本 治, 内田 樹) P. 219-220

このあとに続く「お客さまの役に立たない役者なんて役者じゃないな」って言葉がずっと残っている。

観念の「私がやりたいこと」は、手足を縛ってしまう。ややもすれば、手足が縛られるどころか、動かない。頭で着想して頭で帰結。振り返ると何もしていない。動けたとしても、「お客さまの役に立ちたい」と一顧だにせず、「私ができること」だけをリストアップ。観念から生まれた言葉は、「私」が主語で記述される。

「あんたにその能力あるの?」と自問する機会。機会を探し歩くより、自問を恐れる。私が主語だから怖い。それからの脱却。否、そもそもどのように自問すればよいのかわからない。わからないからとにかく動く。だめならすぐに他のやりかたを試す。身体を動かし、その後で現象を精察する。精察する時間を惜しむかのようにまた動く。それを傍らから眺めると、「飽き性」と揶揄されるかもしれない。

飽き性とは、「私ができること」の列挙と削除の繰り返しじゃないか、と僕は考える。じゃぁ、オレはコレができるからやってみよ。アレ、あんまりうまくできないや、やめた。今度は、アレができるからやってみ。うん、うまくできた、満足。

他方、「お客さまの役に立ちたい」と動き、停止して、また動く。試行錯誤の連続。その連続は、「首尾一貫していないことが一貫している」、と認識している。

お客さまは何を感じているかなんてわからない。どこまでいってもわからない。わからないけど役に立ちたい。自分がこれでよいと満足しても、お客さまは喜ばない。どうしてだ? そうなれば、自分の持つ「能力外」を考えなければならない。「自分の能力外」を「自分の能力」から探す。どうやってだ? 何をだ? 能力の集合の外側をどんな視座から眺めるんだ?

私を滅すれば滅するほど、お客さまが「私」を評価し生み出してくれる、ように錯覚する。