無心

聞いた話。座禅の修行をしている人の脳波を測定する。5分に1度ぐらい、鈴を鳴らす。すると、座禅をしている人の脳波が乱れる。これを何度も繰り返すうちに、脳波の乱れが小さくなる。つまり、鈴が鳴っても、もう慣れてしまって心が乱れない。それを予測し、身構えるからだ。ところが、修行を重ねた禅僧の脳波を測定すると、鈴が鳴るとごとに何度も同じように脳波が乱れる。彼は鈴の音に慣れない。つまり、それが「無心」の境地だという。

“封印サイトは詩的私的手記―I Say Essay Everyday (幻冬舎文庫)” (森 博嗣) P.300

このエピソードの出典を探しているけどなかなか見つからず。コレと昨年米エモリー大のチームが発表した内容はつながるのか知りたいところ。米エモリー大の発表によると、「禅の修行者は、修行経験のない人に比べ、瞑想を乱されてもすぐに元に戻る能力を身につけていることが、機能的磁気共鳴断層撮影(fMRI)による脳活動の観察でわかった」とのこと。

25歳から2年ほど座禅を組んでいた(できるかぎり毎朝)。時間は5-15分程度。その時、「無心は難しい」と感じた。座禅を組み始めて、「何も考えない、何も感じない、何も見ない」と強く念じたらもうダメ。強く念じた時点で、「分別」している。万が一、ぼーっとできかけた時、なんでもいいからある事柄を頭や躰が察知すると、その「一度」がつきまとう。一度乱れると、乱れ続ける。つまり、禅僧のように乱れた後の”もどり”がない。「乱れ続けない心」って何だろうって。

剣道をしていた記憶(小学生)を辿ると、頭を使えば使うほど勝てず、咄嗟の太刀筋が決まり手だったり(と思う)。あと、上手い人と強い人がいて、前者は必ずしも強いとはかぎらない。強い人はおおよそ立ち姿と構えが美しかった。それは今でも覚えている。子供心に「すごいなぁ」と感じていた。

ところで、「無心」という概念と言葉について、外国はどう表現するんだろう?