言葉より人を選別する

リャグーシュカで買ったマトリョーシカ

「勘違いしないでほしい」海月は上目遣いに加部谷を診た。「たしかに、僕は自分の個人的な欲求から、ナイフが見たいと言い、その願いが叶ったことで、その欲求を満たした。しかし、君に、それがどんな内容のもだったかを話すと約束した覚えはない。僕は、ある理論によって今回の事件の犯人が誰なのかを知っただけだ。これは、その確率が高く、僕個人が納得できる結論ではあるけれど、それが事実だという保証はないし、もちろん、事実だと主張する気持ちはまったくない。何故なら、推論に誤差を生じることに僕は責任が持てないからだ。またたとえ、論理が導く結論がほぼ百パーセントの確率で現実を言い表しているとしても、僕には、それを説明し、現実はこうこうこのようでしたと説明する義務はない。また、一旦口外したことで生じる責任は、やはり僕自身に降りかかることを避けられないんだよ。わかるかい?」“φは壊れたね (講談社文庫)” (森 博嗣) P.273

こういう科白を口にするとき、「感情」は顔を司るのか? 聞いている相手は、「感情」を制御しているのか? 悟性は言葉と人の両方を処理できているのか?

目の前で誰かが誰かに語った。僕は誰かに注目するより言葉に耳を傾けた。

だけど、誰かが語れば語るほど、誰かの顔は険しくなった。誰かは誰かを「言葉」より「人」で選別している。選別の基準は感情。感情を誘発した原因は、誰かの行動だ。

誰かは誰かに対して「感情」を抱いた。抱いた瞬間から、言葉を吟味しなくなる。事象を理解しなくなる。感情は、「誰かが語る内容をどのように否定するか」に意識を注力させる。是非を判断していないのだ。はじめから「否」しかない。

誰かが部下で、誰かがトップならそれは悲劇でしかない。悲劇を観ている人たちは沈黙した。まるで、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」かのように。

論理を理解するためにわれわれが必要とする「経験」は何かがかくかくであるというものではなく、何かがあるというものである。しかしそれはまさにいささかも経験ではない
論理は何かがこのようにあるといういかなる経験よりも前にある。
論理は「いかに」よりも前にあるが、「何が」よりも前ではない。 “論理哲学論考 (岩波文庫)” (ウィトゲンシュタイン) P.111