空間がオープンになれば物差しは変わる

ここ「エグザイルス」で気がついたもう一つのことは、人が自然とぼくの周りに集まってくる、ということだった。ぼくは以前から、有名になるだけでなく、人に注目される人間、リスペクトされる人間になりたいと思い、いろいろとあざとい努力をしてきた。でもたいした成果は得られなかった。きっとそんなぼくの自意識過剰な努力を人は見透かし、煙たく思ったのだろう。「オレを見てくれ、オレに注目してくれ」というオーラを発している人間に、人はなかなか集まってこないものだ。その人間のエゴしか感じられないからだ。でも、「エグザイルス」をオープンにしてからというもの、ぼくの周りには人が群がってきた。“人生の100のリスト (講談社プラスアルファ文庫)” (R., ハリス) P.321

10代の頃、人の前に立って「何か」を達成すると快感だった。その意識を抱えたまま、社会人になった。一年目を信じられない思いで過ごした。二年目から愚痴がはじまった。愚痴は後輩に向けられた。三年目、”O先輩”に出会った。「ほんとう」の人だった。組織の愚痴を一言もこぼさない。感情を抑制する。不合理の意識決定に動じない。

気づかせてもらった。ぼくは後輩にとりかえしのつかないことをしたと。

後輩へ愚痴った代償を自覚した。彼らは何年経っても「愚痴っていた姿」を基準にぼくを判定する。それがぼくの支払った代償。「オレを見てくれ、オレに注目してくれ」と後輩へ送信していた。

“O先輩”に出会い、自分が発していた信号は最低でくだらないと気づかせてもらった。感情をコントロールできるようもがいた。愚痴を冗談を交えて”O先輩”に話した。どうすれば笑って聞いてもらえるか。少しずつ受け入れてもらえたような感触を得るたび、”O先輩”のすべてをトレースしたいと欲望した。

「オレを見てくれ、オレに注目してくれ」とオーラを発する人と遭遇したとしたら、少し嗅ぎ分けられるようになった。まぁ、嗅ぎ分けられても錯覚と認識している。自分の嗅覚は鋭くない。

他者の五感と感性は、自分のすべてより優れている。

この前提をぼくの内側で設定できたとき、あとは「嫉妬」と「嫌悪」が残った。さてどう向きあおうかと。他者の評価を心配しなくてよいようになって、ずいぶん気が楽になった。

「エグザイルス」という空間そのものが人をオープンにさせる、特別な雰囲気を持っていたのかもしれないが、こういう環境にいると、人間を測る物差しというものがいやおうなく変わってくる。人を偉い、偉くない、有名、無名、勝ち組、負け組などと判別することがいかにバカバカしいことか、肝で感じるのだ。人はやはり中身だ。格好良い奴は、何をやっても格好良いし、格好悪い奴はどんなに偉くなっても格好悪い。“人生の100のリスト (講談社プラスアルファ文庫)” (R., ハリス) P.321

愚痴っていた時、「オレを見てくれ、オレに注目してくれ」とオーラを発していたぼくは、人一倍、他人を観察している、と自負していた。バカバカしくて愚かな話。

今は思う。自分と向きあう、それも徹底的に。向きあえば向きあうほど他者がやってくる。だけど「徹底的」がわからない。お願いだ、それを教えてほしい!