街をデザインする

GIOS PURE FLAT 2008

国は「街」をどうデザインしていたのかな。何も知らずに書きますが。明治・大正・昭和・戦前・戦後・高度経済成長・バブルとそれぞれの時代。その時々の国。”国”ってピンとこないから、「街」をデザインしなければならなかった人たち。

浜大津と大津の間には、町屋が残っている。車にとってやっかいな町割だけど、散策しているとよくできているなぁといつも感じ入る。シンプルなのに美しいし、わかりやすい。町屋といえば京都。京都は、町全体に風水の思想が取り入れられているとの由。京都の鬼門にあたる北東には、比叡山がある。王城鎮護の山。

少し前、奥様から「昔の人はどうしてあんなに歌を詠んだのか?」と尋ねられた。僕は、「することがなかったから。暇だったから」と答えて大笑いされた。でも、案外的を射ているかもとひそかに自讃していたけど :grinnod:

平安京の造営はたくさん「知恵」を集めた。後世から振り返ると「知恵」で、当時の人は、「時間があったからゆっくり考えた」だけかもしれない。時間の速度や経済の概念が今と異なる。風水の思想を取り入れた背景を知らないけど、とにかく「一生懸命考えた」痕跡を残した。

「一生懸命考えた」痕跡はデザインに変容して、壊されなかった。デザインの中にそれぞれの家を建て、制限されたなかで最大の自由を享受しようと、「知恵」を絞った。路地はトラック一台止まると交通渋滞と化す。文句を言いつつ受容してきた。

今、デザインがブランドとして認知された。

浜大津と大津の間にある町屋もなんとかブランドにしようとがんばっている。その足元で、浜大津から西大津・唐崎の風景は激変した。湖岸にはマンションが建ち、「レイクビュー」を謳歌。そこへ待ったの声。少し建てすぎたと県は諫める。昨年、その景色を見て奥様が嘆いていた。まぁ、マンションを否定しちゃうと安直だし、何かアイデアはないのと質問すると、「琵琶湖を一周できる歩道と自転車の道を造る。そこに道の駅のようなお店を民間が出店する。道の駅を往来できるよう海上交通を発達させる。マラソン大会をやる。それと….」 😛

収用の金額を算段するとゾッ。天文学的数字。不可能かもしれないけどワクワク。車社会の滋賀県では、歩行と自転車、それに海上交通は受け入れてもらえない。いまだ人口が増加しているから右肩上がりの発想と財政赤字削減が優先されて、「街」のデザインは二の次かもしれない。

「とにかく一生懸命考えた街」は”昔”からあった。それに人が”今”気づいた。「街」をデザインするのは人だけど、人を主語に考えると、気づかない事象がある、って自転車に乗りながら考えた。あぶないアブナイ :wow:

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