距離と密度

琵琶湖 比良山

距離と密度を互いに認識していないと相手を失望させてしまう。たぶん、僕を「気軽に相談できる人」と相手は設定している。数ヶ月に一度、会っているし、5年以上前なら頻度はもう少し高かった。相互の距離は近かった。それよりも大切なこと。お互いの密度が高かった。

相手と僕、それぞれの物語を持っている。距離と密度を認識していたとき、二人は「ある文章」を共有していた。第何章第何節の一文かは知らないけど。

時間と空間が捩れる。定期的に会っているとはいえ、それは「物理的」距離を維持しているだけ。「心理的」距離はずいぶん離れた。対岸。密度は低い。相手も薄々感じているかな。相手の物語に関心は薄れ、共有していた文章も推敲していた。僕は書き直し始めている。消せないとわかっているのに。

モームが言う、「昔は親しくしていたが今ではすっかり興味の冷めてしまった友だちをどうするかの問題」を体験したらしい。相手は成功者、僕は不成功者。やっかいだ。嫉妬と無関心が交錯。

そういう時空に「相談」がやってくる。昔のままで。だけど、昔の僕はいない。相手も昔でない。だから、そう想定して応える。僕の解は、混乱を与える。諦観できない僕の解は、嫉妬と焦燥にまみれていた。虚勢が並ぶ解は、相手を失望させる。

僕が感じた距離と密度、相手が感じた距離と密度、両者は違う。あたりまえ。その差異を互いに認識できれば幸運。

幸運はそう訪れない。

訪れないと知ったとき、かけがえのないものを感じる。今の僕の周りにいる人との距離と密度。

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