対話はn次の問いとn個の解

時間と空間に興味を抱くと、無限に誘われる。記憶をたぐりよせると、18歳のころに感じた疑問。偽造記憶かもしれないけど。

「自分を見つめるもうひとりの自分を作った。だけど、そのもうひとりの自分を見つめるのは誰だろう? では、その”誰”を見つめるのは誰? じゃぁ…..」

当時、意味を探る「仕方」を知らなかったし、それを探そうともしなかった。だから、この疑問は記憶といっしょに片付けられた。ようやく少しずつ引き出せそうな感触。

無限の果てに何があるか―現代数学への招待 (知恵の森文庫)

無限を学習したいなら、数論や集合を知らないといけないかなと思い、30を越えてから算数の勉強をスタート。亀より遅いペースで進行中。この間、本棚に飾ってあった『無限の果てに何があるか―現代数学への招待』へ手を伸ばした。読み始めてすぐにワクワクした。まったく理解できないのに、ワクワクだけが増幅。不思議。それから代数学の基本定理が突き刺さった。

代数方程式論の基本定理 複素数係数の n次方程式は、ちょうど n個の複素数解を持つ

『無限の果てに何があるか―現代数学への招待』 P.55

もちろん知らない。というか、習ったしれないけれど覚えていない。ちんぷんかんぷん。理解にほど遠い。情けないやら悲しいやら。

ただ、この定理を読んで、対話ってそうかもなんて。定理を理解している人へ嫉妬かも。

「問い」を設定しない人は除外するとして、問いを設定する人は解を求める。解なしもあるはず。n次とn個。僕の相手の”n”に挿入される整数は何だろう?

ある事象に対してn次の問いを設定し、n個の解を探求しようとする人。そんな人と出会うと、心底憧れる。次数をどんどん上げていく。視点、発想、想像力、非常識、枠からはみ出る跳躍力、そして、あらゆる紳士よりも高貴なふるまい。すごく羨ましい。

n次に対してn個。解がなければ定理じゃない。対話に解はないかもしれない。だけど、与えられた有限の時間と空間の中で、解を探す。それへの情熱。

正しい表現かわからないけど、僕の”n”は1,せいぜい2か。死ぬまでに”n”はいくつになるかな。無限への欲望。尽きない。尽きないと感じられる幸せ。

数学って素敵。複雑の過程を辿って導き出された単純な定理を読んで、理解できたとき、美しいって言葉がよぎる。美しい、これも摩訶不思議な概念。

今さら自分の頭脳を呪っても詮無い。少しずつ、少しずつ。

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