炒飯と値踏み

玄米の鮭炒飯

朝から玄米で鮭炒飯を作る。大仰な書き方。昨晩炊いた玄米にイオンで安売りしていた鮭(これも昨晩焼いた)を入れて炒めただけ。今回の鮭は中辛(いつもは甘塩)だから味付けの塩はふらず。それで充分 :blush:

フライパンで玄米と鮭、葱、卵を炒めているとき鎌倉の中古物件がよぎる。ウェブサイトでたまたま目にした物件が2,380万円。そうか2,380万円かぁという思い。あっ、詳細は見ていません。ただ、ああ、そうなんだなぁって気持ち。日本の住宅ローンはノンリコースじゃないから厳しいなぁ。かといって鎌倉でも賃貸はちょっとね。保証人の問題が。いや、結局ローンも保証人が必要だし。あはは、その前に確定申告書を見たら銀行は真っ青になるな。貸せません!って。そういえば、昨日の記事を読むとちょっと凹。死に方の問題なのに。貸す方の事情もわかるし。死そのものの前に死に方を選ばないといけないなんて 🙁

じぶんの存在を「値踏み」するとき、ひとはたいてい、他者のそれと比較する。じぶんいは他のひとにはない何かがあるだろうか、他人ではなくこのじぶんいしかできないことはあるだろうか、と。自意識をもつというのは、じぶんのなかにじぶんを評価するもうひとりのじぶんがいるということである。このもうひとりのじぶんが、じぶんと他人との比較をするのである。そして、他のひとではなくてじぶんにしかないものを見出したとき、わたしたちはじぶんの存在に誇りをもつのである。他人に褒められ、他人に羨ましがられるときにひとが有頂天になるのも、そうした理由による。

こうしたことはあたりまえのように感じられる。けれども、ほんとうはあたりまえのことではない。

“死なないでいる理由” 鷲田 清一 P.216-217

そう、「値踏み」してるよね。だから、かんたんに「嫉妬」へ裏返ってしまう。感情ってこわい。それに、比較。比べたい対象が近似値にあるとき、比較が現れる。近似値じゃなく、希望が到達しない大差なら比較は姿を消す。そもそんな気持ちが湧かない。

比較は、安堵と嫉妬を天秤に乗せる。どちらに傾くか薄々感づいているはずなのに。そして、傾いた方に一喜一憂。ああ、情けない。まだまだ”じぶん”がいない。

数値に惑わされちゃだめだな。もっと目を向けなくちゃいけない材料はたくさんある。そらしてはいけない。直視して受け入れないと。制度を恨んでも前へ進まない。

おっと、炒飯がこげてしまう。そろそろ頃合い。うまく水気がとんでるといいけど。

頭は鎌倉、身体は炒飯。一口食べて幸せ。たぶんそれが現在。今のじぶん 😆

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