[Review]: 「哲学実技」のすすめ

「哲学実技」のすすめ―そして誰もいなくなった・・・ (角川oneテーマ21 (C-1))

「哲学学者」と「哲学者」の違いは? いきなり尋ねられたらどう答えましょうか。そもそも「哲学」って何だろう。そこからはじめないと。なんて思いつつ頁をめくると、中島義道先生は「哲学学者」を批判していた。激烈を極めるって言いたいくらい。先生は、「これはぼくの哲学観であって、永井均さんや池田晶子さんや鷲田清一さんなどは、まったく違うことを考えているだろう」とおっしゃる。頷く。だけど、池田晶子さんには疑問。池田晶子さんに感動して二桁ほど読んだけど、先生と通底しているような。観は違えど姿勢は同じ、というか、出発点が似ているような印象を受けた。

先生が哲学者を養成するために開催した塾。6人が集った。それぞれ異なる属性。性別・年齢・職業・社会的立場など。みなさんそれぞれ胸の内に何かを抱え、哲学に何かを期待し、何かが変わるかもしれないと願いやってきた。だけど、そんな淡い欲望もあっという間に露と消える。束の間の希望。

自分の「からだ」から湧き出た言葉を尊重して「ほんとうのこと」を正確に語りつづけること。

“「哲学実技」のすすめ―そして誰もいなくなった・・・” 中島 義道 P.10

こんな平易な文章が6人に襲いかかる。両手を伸ばした直径2mにも満たない世界を考えず、事柄を対象にしてきた人たち。どこか自分事でなかった世界。その世界が急に目の前にやってきた。先生の言葉によって。客観が主観に変わる瞬間。主観の懊悩の先に客観がある、と僕は感じた。直径2mの世界を考える苦悩。こんな苦しまなければならないのか。こんなに世間から「外れた」思考を続けなければならないのか。外れるために必要な勇気を持つ、否、勇気でない。外れる自体の難しさ。先生の言葉、6人それぞれが抱く観念、両者の差異。激突。

やがて一人去り、また一人去る。

「悪」「不幸」「エゴイズム」が目次に。だとすると、「それらを排除しましょう」「そんなことをしてはいけませんよ」なんて倫理が展開されるかなってよぎる(先生の著書を読んでいればありえませんが)。まったく正反対。誰もが持つ悪。山のようにある幸福論を蛇蝎のごとく嫌い不幸論を極める。健全なエゴイズムを育てる。対偶の思考。思考の「体力」。僕は先生へ反論する。だけど、その反論は、誰かの言葉を借用してまいか。常につきまとう自問。平行線の世界。いつか交わるという期待と断念。

4人が3人に、3人が2人に。

幸福を真実と同じレベルで考えてはならない。いますぐに説明するよ。真実をいつでも貫き通すことはたいへん難しいのだ。だが、だからといって簡単に「しかたない」と呟いていい問題ではない。このことをカントほど考え抜いた哲学者をぼくは知らない。

ぼくは、三〇年以上カントを読んできたが、やっと最近ここに潜む恐ろしく深い根が見えるようなったよ。カントは殺人鬼に追われた友人を匿い、追手から「どこにいるんだ?」と聞かれたときでさえ、嘘を言うべきでないと断言している。友人を場合によっては見殺しにしても、嘘をついてはならないと確信している。友情よりも真理が断固優先すべきであることを確信している。

「哲学実技」のすすめ―そして誰もいなくなった・・・ 中島 義道 P.141

結末、「からだ」から発せられた言葉が先生を突き刺した。衝撃。少しの衒い。一切はこわれ、一切は新たにつぎ合わされる。だけど、一切はこわれることに直視できるかどうか。結末に違和感を覚えつつ、「よかった、”気づかなくて”」と安堵した。だけど、その安堵にちょっぴり寂しく思う自分。相容れない気持ちを抱えたまま書架に戻した。いつでも見える場所に置き直して。