元気な時の光景と病の時の幻想

2011年にアナログ放送が終了してデジタル放送へ移行する。その頃にはテレビを廃棄しようと決着した(あとは勇気と実行だけ)。そんなくだらない話よりも、2011年頃の仮想は、どのような映像と言語をデジタル信号に変換してくれるのかなと想像する。

長等公園の裏の山

ルーブル美術館で世界を観賞したい。マチュピチュでタイムマシンに乗りたい。南極で生命を感じたい。気力と体力、そして好奇心を持っていれば実現できる。もし、それを仮想が完璧に再現できるとしたら、周りは反応するか。

「所詮、バーチャルだ」「躰がともなっていない」「脳が錯覚する映像にすぎない」

自然科学の反論もあれば、思想の意見もあると思う。

いずれも、「元気」を前提にしているだろう。あるいは「元気」を忘れているかも。仮に、もし、大切な人が病に倒れたとき、富士山に登りたいと口したとする。2011年、仮想は現実の映像を完璧に表現できた。今でも目にする、巨大な眼鏡付ヘルメットをかぶったら映像が現れる。否、今いる空間がすべて切り替わる。ルーブル、マチュピチュ、南極に。360度。音。

そうなった時、富士山に登りたいという希望を叶えるかどうか。そのやりとりを揶揄するか。

元気か病かによって、現実か仮想を区別する。

トレッドミルはカロリー消費に貢献するだけ、それ以外何の役にも立たないと誰かが言う。実際やっているけれど、そうだと納得。トレッドミルの上で音楽を聴きながら5km走る行為と公園で風を切る音に耳を傾けながら走る行為、どちらが躰に影響を与えているのか僕は知らない。

知らないから想像する。2011年、トレッドミルの上で走っていると、突然、風景が変わる。そこは自分が走りたい場所。四方八方から聞こえる音。映像と喧噪は表現されている。

その時、僕は何を峻別したらよいのだろう。今からとても楽しみだ。