私はプレゼンとういものは伝達が難しい抽象知を、わかりやすい具象知に変えてみせる、一種の「知の錬金術」ではないかと考える。
この「知の錬金術」を自在にあやつり、プレゼンが終わると同時にクライアントがハタと膝を打って、感涙のうちに採用決定になる。
これが私の理想のプレゼンだが、なかなか実現は難しい。“ひとつ上のプレゼン。”眞木 準 P.13
本日、F先生のミーティングに参加予定。スタッフのいまちゃんがプレゼンをするらしいので(もう終わっていたらごめんなさい)、プレゼントしようと本棚から取り出してきた。書店で”ビジネス”に仕訳される本をあまり紹介していない。今も、そういえば読んだなと思い出して書き始めた。
浅学を恥じて吐露すると、僕はナントカ業界のトップランナーを知らない。∴著者を知らない。著者のみならず、「提案家業クリエイター19人」も。略歴をとばして読んだ。登場する広告を目にして、「ああ、この広告は!」といった具合。
プレゼンは輸入された単語。氾濫するカタカナの単語に分類されてしまい、プレゼンの本来の意味が曖昧になったままだ、と著者は言う。あえて当て字で表記するなら、「触善」との由。読んで字の如く、「善きことについて触れる」の意味。思わず言い得て妙だなと納得。
著書の初版は2005年3月。19人のクリエイターのうち、パワーポイントを否定している、あるいは重要視しない人が多かった。もうひとつ、「ペラ」の企画書を書く人が多いという点。分刻みのスケジュールをこなす相手に分厚い企画書はいらない。否、人を魅了するアイデアが詰まった企画書は、削り落とされ洗練された思考の固まり。言葉は少ない。
手前味噌だけど、パワーポイントを使ったセミナーが嫌い。僕はやらないし、聞かない。理由は、パワーポイントの操作方法をよく知らない(この比率が9割)、思考が限定される、手順が決まってしまうから。その空間で生まれる臨場感が失われる。弾力を楽しむ。粘性に思考を委ねる。
セミナーによっては、パワーポイントの内容を印刷してレジュメ代わりに配布する。「ああ、これは参考資料で、今からこれとは違う話をするのか」と身構えていると、モバイル系のパソコンを駆使して配布資料をプロジェクターに映し出し読んでいく。吃驚した。
それよりも、僕は、
- 空間(広さや高さ)と雰囲気
- 聴衆の反応
- 知の創出
の発見に注力する。それには、
- 発話の仕方(声の抑揚やリズム)を意識する
- 聴衆と僕が一緒に立つ踊り場を探す
- 聴いているように話す
よう心がける。事前準備をなるべく最小限に抑える。最小限、つまり中心の要素は何かを考え抜き、それを言葉と映像にできれば、あとは幾通りかの進行をシミュレーションする。それを当日まで繰り返す。
もうひとつ、私がプレゼンのために心がけているのは、「クライアントへの思いを持つ」ことです。[…]といっても、毎日、朝から晩まで頭をひねっているわけではありません。また、そのために時間を取って考えるというわけでもありません。いつも頭のどこかでシミュレーションをしたりしています。
“ひとつ上のプレゼン。”眞木 準 P.213
まさにコレだ、だ思う。「クライアント」に言葉を代入すればいい。患者でも恋人でも。頭のどこかでシミュレーションする。常に「それ」が頭にある状態を忘れる状態に身を置く。すると、妖精がひらめきを耳元で囁いてくれる。散歩や風呂や厠で。ニュートラルな時間に訪れる妖精。僕は、カメラを持って歩き回っている時が多い。ニュートラルな時間をもたずに妖精がやってきてほしい。贅沢だ。それを切望するけど一度もない。天才は、ニュートラルな時間を持たなくても妖精がやってくるのかな、とちょっぴり想像したり。自分が思考の中心。自分がアイデアの源泉なのか。わからない。
パワーポイントや分厚い企画書、視覚的に見やすい(洗練されたデザインという意味じゃなく)は、どれも手段。クライアントに何を伝えたい? 何を提案したい? クライアントが感涙する広告は?
仮にプレゼンを準備する時間を24時間だけ与えられたとしよう。1時間考えたアイデアを伝えるために、資料作成に23時間費やす。操作方法を検索してフォントを整えて、フェイドインフェイドアウトを少しアクセントに。
違う。23時間考えたアイデアを伝えるために、資料作成に1時間。残り10分なら手で書けばいい。
文字はプレゼンしない。音声はプレゼンしない。
自分がプレゼンする。自分の躰がプレゼンする。
自分の声が空気を振動して相手に伝わる。
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