右肩上がりの予算

昨日、JR KYOTO ISETANの10Fにある京都拉麺小路で打ち合わせ。カフェの席。17:00頃に伊勢丹のエスカレーターから上がっていき、19:30頃に降りた。深刻に近いニュアンスがあてはまるのかな。平日を差し引いてもちょっとなって感じ。

1Fでは接客できない従業員が何人も立っている。正社員か派遣社員か判別できないけど、目の前の人たちだけなら微々たるコストだろう。だけど、計算を全店舗に展開すれば、利益を痛打するコストまででないにしろ、椎間板ヘルニアのような痛みを患うかもしれない。

雇用の数字や権利の問題で解決できない事態が、現場に生じていると観察できる。だけど、それを伝える人は少ない。大部分の人が目にするメディアは、すでに位置が違う。新聞は労働者を守るために報道しているのではなく、政権を交代させてたい一心で解雇を報道しているな、と僕は勘ぐってしまう。目的は政権交代、手段は解雇。

たぶん解決はない。というか、解決として提示される政治性のメッセージは、ぶっちゃけ幻影なんだ、自分は自分でどう働くか考えようという自立しか結局個人に残されないように思える。とてもつらいし、個人にかかる圧力は不均衡があるから、潰れる人も多い。でも、たぶん、どうしようもない。

via: 日経社説 この際、定額給付より雇用対策の充実を – finalventの日記

指摘のとおりだ。「かなり保護された労働者と、保護されていない労働者の亀裂」がある。保護された労働者が享受している事実を伝えられない。それらが集まって組織が形成されれば、こうなる。

良いか悪いかに関心を持っていない。衆を頼めば、こうなる。システムがそうなっている。保護されていない労働者は、保護された組織へ加入できるよう頼むか、あるいは、自分たちが行動するか。どちらの選択も、メッセージは政治。保護された組織は、加入を積極的に働きかけるか。消極的か。「政治家と労働者」の構図は成立しても、「労働者と労働者」の構図は描けない。否、描かない。意識的か。誰も虎の尾を踏みたくない。

同じことは、最近の雇用情勢
にも言えるのであって、
ぼくは、「正社員」とか、「派遣社員」
とか、そのような区別のような
ものがある社会のあり方を、
感情の根底において受け入れていない
というか、何を意味しているのか
よくわからないでいるところがある。

極端なことを言えば、全員がフリーランス
であるような、そのようなものとして
社会を見ているらしい。

via: 茂木健一郎 クオリア日記: わからない

昨日の、打ち合わせをしているとき、帰り際、相手の方が口にした。「来年度の予算は右肩上がりです」と。驚いた。数秒間、単語をリピートした。その間に、過去の自分を呼び出し、思考をトレースして、ようやく理解した。

前年対比で増収する予算、違う世界で活動する組織の現実は、まだ右肩上がりなのだろう。それは、労働者と労働者の中にも潜んでいるのかもしれない。