言葉はシーケンシャルで記述する

つまり、不連続なのは人の認識である。
こんな非連続の中に、我々は、共通項を見出し、物事の道理をつなごうとする。星座のように点と点を結び、そこに連続性を見ようとする。ばらばらのものを掻き集めているつもりかもしれないが、そもそもばらばらにしたのは自分たちなのである。
自然にあるものは皆、連続している。それなのに、我々人間は不連続だ。

“赤緑黒白―Red Green Black and White” P.20

年表がそうだなと思う。

年表になった歴史に不連続は存在しない。連続と連続の間にある断絶。断絶は書かれていない。歴史はあたかも連続してはじめからあったかのようにふるまう。だけど、連続よりも断絶、消えた「歴史」のほうが厖大。「書かれていないこと」はわからない。人の「基準」とはそんなもの。

via: [Review]: 今日の芸術 –

自然はランダムに連続している(おかしな表現だ)。それを認識している人は、理解できる範囲を眼で切り取る。一度、不連続へ変換する。不連続から物事の道理をつなぐ。その時も、関知できる範囲を言葉で切り取り、連続へ変換する。

同時に別の場所で発生している事象を説明するとき、言葉はシーケンシャルで記述する。そうでないと、理解する方は、時系列を描けない。森博嗣先生の“幻惑の死と使途―ILLUSION ACTS LIKE MAGIC”“夏のレプリカ―REPLACEABLE SUMMER”を読んで疑似体験した。前者の目次を開くと奇数章があり、後者の目次を開くと偶数章がある。“すべてがFになる―THE PERFECT INSIDER”から順番に読んでいたから、最初、すごく不思議だった。どうしてか?

2冊とも読んで意味を理解できた。そして、もう一つの意味、否、意志を肌で感じたとき、言葉のポテンシャルに震えた。だから、ずいぶん経ってから、もう一度、2冊を読み返した。今度は、意志に従って。そしたら、読み進められない、物語を理解する力は半減、いや0に近づいた。何を書いているのか、この文章を読んでいる人は、首をかしげるだろうけど。

他方、同時に別の場所で発生している事象を説明するときだけに限らない。日々の経営でも同じ。連続している事象を、不連続に認識する。わざわざが適切かもしれない。ばらばらにする。あちこちに問題を拡散させる。そこから、共通項を見出し、課題へつなごうとする。その現象を認識する人は、集合によって違う。また、立場が変われば真理も変わる。にもかかわず、ばらばらにした人たちは、いくつもの視点を求める。集合の外側にある眼を求めるから不連続に認識するのか、不連続に認識するから鳥の眼がほしいのか。わからない。

S&MシリーズVシリーズ、それぞれ10冊ずつある。意味は? 意志は? “すべてがFになる―THE PERFECT INSIDER”だけを読んで評価する人はいる。それもよい。それぞれ。だけど、20冊+αを読み終えてひとつの「物語」だと気づく(かもしれない)。

部分は全体に先行し、全体は部分に先行する。

素敵な言葉。Fだけで評価する人がいれば、すべてで評価する人もいる。別に読まなくてもいい。自分が選択する。

不連続なのは人の認識。そう自覚したはずだ。していないのか。わからない。どうでもいい。だけど、場面ごとにいくつもの視点を求めて剽窃して使い分ける集合体に遭遇すると、「すべてがFになる ネタバレ」と検索している人がいるのだなと再認識する。