[Review]: プリンシプルのない日本

プリンシプルのない日本 (新潮文庫)

私個人としては昭和二十八年は嫌な年であった。然し国民の一員として考えると嫌なことはもっともっとふえる。もっともっと深刻なことが始まるだろう。生意気なことを言いやがったと方々でおこられるのを覚悟して言うが、この国をこんな破産状態に陥れたのも我々の時代だ。死ぬまでに我々の愛する子孫の負担がいくらかでも軽くなっている様に、ここでほんとに腰をいれてやろうではないか、現実を直視して。勇気と信念を似って。

『プリンシプルのない日本』 P.142

内田樹先生は「「こだわり」とか「プリンシプル」とかいうのは、あまりない方がいいとつねづね申し上げている」と書き(引越直前どたばたデイズ)、「原則として「ことに臨んでは無原則に対応する」ことにしている」とのこと(原則的であることについて)。

視座はどこか。それによって意味を理解する仕方が異なる、と思う。英語と日本語、いくら訳とはいえ、どのような文脈で使われるのかを僕は理解してないので、理解の仕様がない。両者の考想を受け入れられる。同じテーマを捉えるとき、生きる年代が変わると、視点や発想が違うのも興味深い。その中から普遍を自分で探し出していく。普遍を取り出して、それが妥当かどうかを自分の中で壊して練り上げる。そんなことをしていると一年なんてあっという間に過ぎていく。

自分の無知や無能を認めることは、「よくある向上心」にすぎない。
「ブレークスルー」は「向上心」とは次元が違う。
自分自身が良否の判定基準としている原則そのものの妥当性が信じられなくなるというのが「ブレークスルー」である。
ところが、「原則的な人」はこのような経験を受け容れることができない。
自分が立てた原則に基づいて自分自身を鞭打ち、罵倒し、冷酷に断罪することにはずいぶん熱心だが、その強権的な原則そのもの妥当性については検証しようとしない。
原則の妥当性を検証する次元があるのではないかということに思い及ばないのである。
それが「原則的な人」の陥るピットフォールである。

via: 原則的であることについて (内田樹の研究室)

「ことに臨んでは無原則に対応する」人格と「ことに臨んでは原則に対応する」人格が共存できないか、と僕は暴れている。内田樹先生の仮定を是とするならば、「よくある向上心」を纏えているようだけど、「ブレークスルー」には至っていない。

自分を評価するとき、「自分の基準をどうすれば破壊できるか」と一言で集約する。人と会い、何かを交わした時、「なぜそれなのか」を一人になったとき検証する。すると、「自分で基準をどうすれば破壊できるか」に拘泥しているけれど、「パターン」の思考をくり返している、と気づく。文字通り、「自分の基準をどうすれば破壊できるか」がそう。原則だ。

「原則の妥当性を検証する」仕方がわからない。それが原因だろう。さりとて、それを発見できたとして、今度は、「原則の妥当性を検証する」が原則にならないのか、と思い巡らせる。

ここで躓きたくない。堂々巡りという安住の地に身を置き、言葉で戯れること。小難しく受け止めるつもりはない。自分の生活(僕はこれを経営と言うけど)に置き換える。半径数mで発生する事象を見る。見ているようで見えてない。イオンに行って客の苦情や改善案を掲示している板を読むと、無原則のようで、何かしらの原則が潜んでいるのではないか、と思う。そうかと思えばあきらめの感情を抱く。そんな些末なことに人は怒り、不愉快になるかと。

著者と内田樹先生、プリンシプルと原則を書く二人。どちらも内省を背負っている。僕が二人の中から見いだせた普遍はそれだ。それが妥当かどうか、これから検証しなくちゃいけない。ゆっくりと。時間を計算式から除外して。