前門の無知、後門の苦情

欲望する脳 (集英社新書 418G)

かつて、オーストラリアの作家が書いた小説で、「宝くじは無知への課税である」という素敵な表現に接したことがある。無知への課税はこの世に沢山ある。ソクラテスの「無知の知」がいよいよ大切になる所以である。

『欲望する脳』 P.97

高校で先生から教えてもらって便利な言葉だなと思った。それ以来、さも知ったか風に口にしてきた。その後、何かを知る機会が増えるにつれ、使わないようにしてきた。怖い。おそらく、「解釈」という単語を知ったからと自己評価している。「無知の自覚」と膾炙したように推察するけれど、それが妥当なのかどうか僕は吟味していない。多分、専門家の方々からすれば、前後の文脈と背景があって、それから「こう言いたかったんじゃないか」と推論して検証を経たのち、ようやく、意味を発見する、と思う。それら膨大な知の構築から一言を剥ぎ取ってしまう行為が怖くなってきた。

かつて前門には無知(引用の意味じゃなく)があった。ネットが前門を壊しつつある。情報の非対称性は厳然と存在するけど、無知の知(あえて引用箇所風に使う)が普及し、無知への減税が始まった。まさに知ったかできるようになった。

前門の無知が壊されてゆくなかで、今度は後門に苦情が見つかった。昔も多かったと思うけど、「無知の知」を纏った「知った」人たちが大挙して押しかけてきた。

苦情は医療や建設など情報の非対称性が著しい領域から、教育にまで及ぶ(パラドックスを笑うに笑えないけど)。情報の非対称性の少ない分野も苦労しているかと推測する。検索すれば、情報を見つけられる。おまけに自分の都合のよいように解釈できる。

何も言わずにお金を払ってくれるお客が一番いい、と(建前か本音かわからないけれど)口にされるように、ビジネスに携わる人からすれば、やりにくくなっている。ひょっとすると、「無知の知」を纏った「知った」人たちからビジネスの苦情を突きつけられている人が、病院へ行って苦情を口にしているのかもしれない。役所へ出向いて怒鳴っているかもしれない。時間と空間が変われば、前門の無知と後門の苦情は次々と憑依する。

そんなふうに思い込みつつ、はたしてそうかと自分へ反論する。マニアックな商品を扱っている人たちからそんな声は聞こえてくるか。客は自分以上に知っている。だから誤魔化せない。それが何だ。知っているから自分のところで買うのか。そんな声が聞こえてきそうだ。

前門の無知、後門の苦情、やりづらい。だけど、伝わらない絶望と伝える希望、両方を抱えている人は、人ときちんと接しているように見受ける。「きちんと」なんて定義できない無意味な単語だけど、今、「きちんと」を吟味したいなと切望する。

自覚は錯覚。絶望しているからこそ表現する。

「ある人の価値は、何よりも、その人がどれくらい自分自身から解放されているかということによって決まる」

『欲望する脳』 P.36