接客の鍵は自分の声と顔

女は何を欲望するか? (角川oneテーマ21)

言語と主体についての問題系の輪郭が整ったのは、一九世紀の終わりから二〇世紀のはじめにかけてのことである。マルクス、ニーチェ、フロイト、そしてソシュールが、私たちは、[…] 誰ひとり、自分の操作する言語の「主人」ではなく、むしろ言語の方が私たちの「主人」なのだということを教えてくれた。これが現在、言語についてどんな考察を始めるときにも、最初に踏まえておかなければならない前提的了解である。

『女は何を欲望するか?』 P.123

文章を書くとき、「書きたいこと」を文章に伝達しているのじゃない。スピーチのとき、「言いたいこと」を口にして伝えているのじゃない。「書いたこと」を読んで、自分が「何を書こうとしたのか」を理解し、「言った」あとに自分が「何を言おうとしたのか」を知る。それらの起源を遡る。初めから「遅れ」ている。

旅先でお店へ入る。宿にお世話になる。接客に違和感を抱く時がある。違和感の質は、二つある。1つは、僕が勝手にイメージしていた映像と実際の接客を比較して差異を感じるとき、もう1つは、お店の接客が、演技のとき。前者は、勝手なイメージを持った自分を疑い、修正すればよい。後者は、旅館やホテル、あるいは旅先でお世話になるお店などで遭遇する。陳腐な例をひくと、高級感を醸し出したいために接客研修を受講したけど、効果を確認できないケース。

一所懸命に接客しているけれど人目をひく行為と見られたり、眉唾物だと疑われる。なぜだろう。

「自分の声と顔」だ、と僕は思う。

接客をしている人を眺めていると、動作は教えられたとおりにできている。誰かが教えてくれた動きを模写できている。だけど、声の抑揚や音域、速度を模写できない。自分の声に戸惑いを覚えつつ発声している、ような(気がする)。なぜなら、その場所で使う当人の声は、日常生活では使わない発声であり、普段使わない話法であり、めったに使わない抑揚だからじゃないかな、と推測する。当人は、その場所だけで使う声と日常生活で使う声を使い分けられない。

自分の声は、必ず遅れて自分の耳に入ってくる。3分間スピーチを録音した人ならピンとくるかもしれない。録音された自分の声に驚く。次にやってくる嫌悪感(これは僕の場合)。「私はこんな声でしゃべっていたのか!」とがっくり。そして、声を修正しようと勤しむ。難しい。よほど意識して発声しないと、声の「色」を見えない。自分の声は遅れて耳に入る。発話して耳に入る、「ズレ」を感知しながら、自分の躰を動かす。とはいえ、そのズレをほとんど気づかない。だけど、自分の声に違和感を抱いたとき、そのズレが微妙な変化をもたらす。躰が居着く。

自分の声が発生して、それを受信して、躰が動く。これがよどみなく流れていく人の所作は美しい。反対に発生と受信にズレがあり、躰が居着くと、照れる。

この照れがやっかいだ。それは顔。自分の顔は自分で見えない。照れた顔を自分で認識できない。違和感を抱く顔も同じ。自分の顔を見ることは不可能で、自分の声が遅れてやってくる。

初めから存在する「見えない」と「遅れる」—–この二つを気づくには、他者が欠かせない。その他者は、何時間何万円で教えてくれる人かもしれないし、日常によりそっている仲間かも知れない。どの他者を選択するのか? それを教えてくれるのも他者かな、と僕は思う。

私たちが「自伝」を語るときの主体と言語の乖離は、この「私」と「私を見る視線、私を記憶する記憶」との乖離に似ている。「私はそのとき…..をした」という言明において、語っている「私」と「語られている私」の間には、その瞬間にすでに乗り越え不能の隔絶が生じている。「私」が「私について」語るとき、「語る私」を基点にとれば、「語られた私」は「他者」であり、「語られた私」を基点にとれば、「かたりつつある私」は「他者」である。

これが「根源的疎外」という人間的事況である。

『女は何を欲望するか?』 P.125