関心がない=しない、じゃない

皇子山公園の紅葉

「あなたは”それ”に関心を持っているけれど、私は関心がない」と、他者へ向けて発話した瞬間、発話した当人は、探求から遠ざかる。当人が関心を持って欲しいと願う別の”それ”について、他者から関心を持ってもらえない意味を知ろうとしても、「あなたは”それ”に関心を持っているけれど、私は関心がない」と他者から当人へ発話されているから。自分が発話した構造に自分で気づかない。

自分が提供する価値について考えるとき、自分を除くすべてが提供している価値について、「どうしてあれはあんなに価値を持っているのだろう」と関心を持てなければ、自分の提供する価値を考えられない。私は車やバイクを持っていない。運転しない。服装に頓着しない。だけど、ポルシェやハーレー、H&Mの価値に関心を持ちたいと願う。自動車を買いたい、バイクを買いたい、自転車を買いたい、おしゃれでありたいからじゃない。鉄道が好きだから列車に乗るのじゃない。映画を観る、本を読む、ドラマを観る、景色を眺める、観光へ行く、食事へ行く…..つながっている。

見えないモノを見ようとしない自分に悔しい。関心を持てない自分に苛立つ。

自分を除くすべてが提供している価値に惹きつけられる人々がいて、それらの現象の根本を探求して検証するのが「自分を考える」ことだ、と僕は思う。