歯科医院と時間

とにかく、物理的な制約、空間的な制約というのは
どんどんなくなっていく。
まったくなくなりはしないけれども、
考える傾向としては、なくなっていくんですね。
で、なくなった結果、
なにがポイントになるかというと、
ぼくは「時間」だと思ったんですね。
つまり、そこだけがまったく変わらないんです。

via: ほぼ日刊イトイ新聞 – 適切な大きさの問題さえ生まれれば。

ちょっぴり誇らしげに書けば、同じ集合にいるんだなぁと感じた。時間を考え続けている方々にとっては、何をいまさら誇張しているんだって感じかな。

先日、ある歯科医院で「時間」について院長先生に申し上げた。ほんのさわりだけ。歯科医院(だけじゃないけど)は、時間について考える機会を設けたほうがいい、と僕は思う。それも徹底的に。だけど、時間がないかもしれない。みんなやることで手一杯かもしれない。自分のことをひけらかせば、ずうっと考えている。時間と空間。

ただ、こう書くと、形而上学的に受け止められかねない。そうではなく、物理学(って全然知りませんが)というか、科学的なアプローチをきちんと用いて考えるよう努めている。亀より遅い速度でゆっくりと。咀嚼できるようなりたい。学び続けたい。昨年か一昨年だったか、『時間はどこで生まれるのか』を読んで、少し整理できて学ぶ方向を掴めた。

歯科医院が時間を考えるとき、自分を起点にしがち。自分を起点とする視点は、自費にもあてはまる(もちろん自費以外にも)。ただし、価格設定の視点は異なる。価格を設定するとき、他の医院を参照する。今は知らないけど、5,6年前にウェブサイトを制作しているとき、どこの歯科医院も1本○○円とほぼ同じだったことに驚いた(同じでない歯科医院もあったけど割愛、それらの歯科医院はいずれもユニークだった)。価格は経営を左右する重要な要素のはずなのに、と不思議だった。

自費の方法は自分の基準を設定している、自費の価格は基準を持ち合わせていない。じゃぁ基準って何だろう。といった感じで、具体的事例から抽象的事象へと昇華させていくプロセスをみんなで考える時間、あるいは、それぞれが考えてきた内容をブレインストーミングする時間、それらを設けたらどうかな、と心中で囁く。(まったく僕の妄想だけど)具体的事例から抽象的事象へと昇華させて、もう一度具体的事例へ帰着させるプロセスを、みんなにお披露目する時間と空間を持つこと、その時空で各の考えを言葉にして認識すること、それが回りくどいようで歯科医院を強化していく、と激しく妄想している。

時間は相対(相対性理論の相対を使えない自分が悔しい)だし、価格も相対だと思う。それは、自分を起点にした相対ではなく、他者の視座から自分に向けられた相対。父が買った車の価格を狂気の沙汰だと思うけど、父は屁とも思わない。なのに僕がPCに費やす価格を聞いて吃驚する。価値と時間。それらを抱擁する空間。その3つの要素が絶妙な均衡を保ったとき、ブランドが創造される。人は魅了される。喜びを感じ、幸せを抱きしめ、創造主に感謝する。ファンになる。その人がまた人を引き寄せる。

経営理念を考え、経営計画を策定して実行して、遂行の経過を確認して調節して、再実行して、さらに人事制度を構築して、就業規則を作成したりと忙しい。それらは治療とはまったく関係のない、経営だ。だけど、経営できなければ治療はできない。多忙の合間を縫って、方法を学びに講習会へと出かける。治療の講習会だけでなく、患者がたくさんやってくる方法の講習会にも顔を出す。一人で何もかもやらなければならない。一人で。

そんな先生方に僕は伝えたい。削りましょう。時間と空間をとことん考えましょう。価値と相対と他者をとことん認識しましょう。感性と感度と感情を、精神論ではなくクールにロジカルに、そしてスパイスのきいた情熱で表現しましょう、

と。