絵を見ているのは誰だろう

もっと大きな視野で見ていただきたいんです。一歩下がって大きな絵全体を! 深い感動の瞬間はもう目前かもしれません。

ContactJodie Fosterが、スポンサーたちの前で力強く訴えた言葉。ジグソーパズルのようにはじめから絵を知っていても、ピースを探すのに苦労する。角度を変えると、鳥瞰や俯瞰という言葉もある。浪漫的に言えば、人生が終わったときに一枚の絵が完成する、とか、あるいは、人生が終わったときに未完の絵でもいいよ、誰かが見ていてくれさえすれば、なんてあると思います、と吟じてみたくなる。

どんな絵かわからないけど、一枚の絵を描こうとしている人がいる。だけど、その人が伝える言葉を受け手は誤解する(悲観的な意味じゃなく)、もしくは理解できない。受け手は、ピースを探している。自分の足元にころがっているピースを。「自分の足元にピースが落ちてました」とにっこり笑ってみんなの前で開陳する。そんな姿と遭遇して、絵を描く人が憤る。

「もっと大きな視野を持って欲しい」

兼六園

絵の全容が見えてこない。描く人の頭の中にだけある絵を覗きたくても難しい。描く人と見る人との間にある線。同じ平面に1本の線が引かれた。線は平面を切り裂いていない。それが救いだ。思うような絵を描けない人と思うようなピースを探せない人、両者は線を睨み、時間がたっていく。もどかしい。そのもどかしさを我慢できるかどうか。

絵を話し合う場所であって、絵の具の選び方を相談する場所じゃない。抱きしめなければならないのは一枚の絵。どんな一枚の絵を描くかを話し合うんだ。そこには好きも嫌いもない。ひたすら描きたい絵をぶつけ合う。

絵の具の選び方やスケッチの方法を学ぶことは大切だ。右顧左眄しつつも教室へ通う。教える方もとっつきやすいからあちこちで同じ教室を開く。

一枚の絵を描くための感性、感度、感情はどこにあるのだろう。自分が描きたい絵を見ているのは誰だろう。絵の具の選び方を教えてくれる人は僕の絵を見ていない。