大木から離れる

知的創造のヒント (ちくま学芸文庫)

大きな木の下には草も育たない、という。大木はそばらしい。寄らば大樹のかげ、という言葉もあるくらいである。近づきたいと思うのは人情であろう。すぐれた本も大木のようなところがある。その下に立っては手も足も出ないで、ただ、大著名著であることを賛嘆するにとどまる。大木は遠くから仰ぎ見るべきものと思って、早くその根もとから離れる必要がある。

『知的創造のヒント』 P.126

30年前に書かれた内容は、少しも色褪せない。では、進歩していないのか、と誤解してしまう。錯覚だ。変わらないために変わり続ける行為を表現すると、時が止まったかのように映るのだろう。森博嗣先生の「学問には王道しかない」という言葉を思い出した。素敵な言葉。

極めて優れた本は、読み手を魅了するあまり、自分の考えを確かめる間を持たせずに手を進めさせてしまう。皮肉なことに、本を読めば読むほど、自分の考えがはっきりしなくなってしまう。どんどんぼやけていく。次に輪郭が現れたとき、自分で描いた輪郭ではない。

「これは本だけではなく、すぐれた指導者についてもいうことができる」と著者は指摘する。優れた能力に着目するあまり、その下にいると、自分を掴めずに亜流になる。すぐれた指導者の能力に近づきたい切望が、薫陶を無駄にし、実は遠ざけている。

すぐれた師匠の門下にかならずしも偉才傑物ばかりが輩出するとは限らないのは、大木の下で毒されて伸びるべきものまで伸びないでしまうからであろう。だいいち、門下という言葉からして寒心しない。心ある門弟はあえて門外に立つ勇気がいる。

『知的創造のヒント』 P.126

他人の文章を引用せずに文章を書き続けるのは難しい。与えられたテーマではなく、自分で考え抜いて書くなんて、僕には超越論的意識にすら思える。そもそも何を考えなければならないのかすら、思いつかないわけで。検索して数ページほど開いて、気に入ったフレーズをつなぎ合わせれば、文章を作成できる。あるいは引用と自分の意見を交互に展開してもいい(引用と意見の比率が8:2も「あると思います」)。

一方で、自分の主張を伝える人はいる。書いてある内容が、たとえ間違った情報(適切な表現ではありませんが)だとしても、洗練されて機知に富んでいる。それらの人たちは、あとがきに記されている「”知る”と”考える”は、なぜ仲が悪いのか?」を象徴するかのような文章を書く。そんな文章こそ大切だ、と僕は思う。羨ましいから。

だけど、読み手は誤解するし、書き手は正確無比に伝えられない。完璧なんてあり得ない。いつしか、「正しいか間違っている」を判定させる方へ僕の意識を向けさせる。検索結果を「知った」文章と検索結果とは無縁の「考えた」文章があって、前者を重宝し、後者を訝る。

門外に立つ勇気って、自分から最も遠い人の声に耳を傾ける修練かな、とふと思う。