補助線が引ける人

思考の補助線 (ちくま新書)

ある社会が「個性」や「権利」をどのように扱うかは。第一義的には、コミュニケーションの現場で人々が何を是とし、何を非とするかという価値観と、それを受けた脳内の報酬系のダイナミクス、そして強化学習によって決定される。

他者との共通基盤があってこそ、「個性」は輝く。このパラドックスの中にこそ、コミュニケーションに支えられた今、ここにある私たち人間の本質を考えるための大切なヒントがある。

『思考の補助線』 P.84-85

他人に迷惑をかけさえしなければ何をしようが個人の自由だ、と口にするとき、二つの性質を観察する。一つは、自分の存在自体がすでに迷惑だと自覚して口にする場合(自覚しているように推測される場合も含む)。もう一つは自覚していない場合(自覚していないかのように察せられる場合も含む)。

前者の振る舞いは、言葉と裏腹にいたって上品。道化役を買って出たり、場を和ませたりとか。後者は、「そんなことをして何の役に立つの」と憤怒の念が萌すけれど、自分が役に立っているかどうかを吟味し忘れていたり、「上から目線で物を言うんだよ、あいつ」と上から目線で物を言う。それが微笑ましい。

どちらを「個性的」と呼ぶのかわからないけど、どうも、スポットライトは後者を当てる傾向かなと思う。どうかな。

自分の存在自体がすでに迷惑だと認識しているっぽい人は、補助線を持っている(っぽい)。一見、何も関係ないような事象を示し、そこに一本の補助線を引く。すると、「あっ、そういうことか」とひらめきが生まれる。補助線を持つ人との時間は、瞬く間に過ぎていく。素敵な時間だ。素敵な人は素敵な時間を持っている。創り出す。自分の思考に補助線を持っているだけでなく、相手の思考にも補助線を引く。

彼、彼女が引く思考の補助線を自分では引けない。あっ、とひらめいた輝きも一人になれば消えてしまう。必死になって書き留めるか記憶に残す。それでも、次の日になると、補助線はもう現れない。補助線の引き方をなんとか学びたいと願い、また、彼、彼女と逢う。

個性的と映る雑誌の中にいる人の容姿に惹かれ、同じような衣を整えてて街へ出かける。個性的であろうと切望すればするほど街ゆく人と似た衣を選ぶ。そこへあの人が颯爽と現れた。あの人が纏う衣は何かがおかしい。裸(これも個性かもしれないけど)超、共通基盤未満、そんなあたりにありそうな気がする。だけどうまく言葉にできない。言葉にできない衣を纏っている人、そこに「個性」とういラベルを貼って、安心する。