無関心は顔に出る

顔の現象学 (講談社学術文庫)

顔はたしかに、作ること、とり繕うことのできるものである。が、作り、とり繕ったつもりになっているだけで、ほんとうはその作った顔、とり繕った顔を自分で見ることはできない。それは一生できない。その意味では顔は、わたしから遠く遠く隔てられている。そして顔はそれを作りうる、とり繕いうると考えたとき、つまり自分の意のままなるもの、自分の所有と操作の対象であると考えたとき、<顔>という現象はわたしたちからもっとも遠ざかる。皮肉にも、「わたしのもの」としてのこの<顔>が他者に対して閉ざされてしまうからである。<顔>は、わたしだけのものとなることによって、わたしから遠ざかってしまうのだ。

『顔の現象学―見られることの権利』 P.69

<顔>について書かれた一冊。全編、顔。膨大な思惟を言葉で表現する過程に圧倒される。形而上の<顔>を理解できないので、卑近な例を示すと、「顔に出る」という言葉を思い浮かべた。先日、それに遭遇した。瞬間、「無関心なんだな」、と僕は想像した。あくまで想像。だけど、そう思わせるほど「顔に出た」<顔>だった。と言い聞かせていたら、その想像を言葉でも確認できた。ただし、悪いなんて言わない。直せなんて余計なお世話だ。時折、そうアドバイスする人を見かけ驚く。

「顔に出た」<顔>を凝視した僕は、その人から遠ざかった。プライベートな興味を持っていないので、乾いた冷たい対応を笑顔でできた。おそらく、「嫌いだ(あるいは苦手、もしくはそれらに近いイメージを抱いている)」が顔に出たな、と推察する。その人がそう考える(あるいは抱く)ことは自由だし、僕は干渉しない。とはいえ、そう考える人と同じ事象をコミットメントするのは効率が悪い。なので笑顔で対応した。

形而上の言葉を剽窃すると、そのときの彼の<顔>は、他者に対して閉ざしてしまったのだろう、と今にして思う。「顔に出た」<顔>をしている当人は、気づいているのかどうか僕は知らない。気をつけないと自分もそうなっているのだと認識した。

僕は、できるだけ「顔に出ない」<顔>を心がけている。不可能だと痛感する。顔を作りうるともとり繕いうるとも考えない。<顔>は自分の意のままにならない。だからこそ徹底的に<顔>を隠すように「意識」しなければならない、と考える。なぜなら、「閉ざした」と他者に感じとられた瞬間、損をするから。損なんて卑しいけれど、そう思う。

脳裏にある疑問を誰(何)が解決してくれるかなんて、僕はわからない。幸せな偶然がもたらしてくれるまで待つしかない。それは他者が運んできてくれる。だから、「無関心だな」や「嫌いなんだな」といった感想を他者に持たせたくない。そんな感想を持たせるインタフェースが顔だと痛感。それゆえ、制御しようと躍起になる。絶望と知っていても。

何度も書くけど、「顔に出る」<顔>について善悪是非を判定する気もないし、興味もない。どうしてエゴイストは少ないのかとそのたびによぎるだけ。<顔>は、わたしだけのものとなることによって、わたしから遠ざかってしまうのだから。