変化の境界線

写真ってホント考えさせられる。カメラの仕組みを理解せずに撮っているって点がダメなんだろうけど、それを自覚したとしても頭を抱える。とてもおもしろい。構図はもとより、光とピント。難しい。ピントが合わない、という意味を体感。カメラのピントだけでなく、対話のピント、思考のピント、行動のピント…..とか。

デジタルだから液晶画面でピントを確認して、「ヨシ!」と納得して帰宅する。さっそく24inchの画面いっぱいに映し出す。ああ、ガックリ。そのくり返し。ブログの文章を書いて、「伝える」と「伝わる」を認識して、「ヨシ!」と納得してアップする。ああ、呆然。それぞれのピントがある。 あたりまえなのに。

皇子山公園

もうすぐ落ちそうだ。

書き手は、前後の脈絡と事象の背景を知って書くけど、読み手は知らない。その時点でもう被写界深度は違う。書き手はF2.2で読み手はF8とか。

皇子山公園

染まりきってしまうより、変わりはじめが好き。表から観るより裏を知りたい。変化の境界線を見逃したくない。変わってしまったもよいけど、変わりはじめるかもは快感。

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奇麗な姿に見惚れて顔を上げている。見上げて歩く足は奇麗な姿を踏んでいる。踏まれてもとの姿を失ってもなお奇麗。

光は待ってくれない。同じ場所をいつまでも照らさない。色彩と光彩は一瞬で変化する。ピントを合わせたいと必死になっている隙に、光は逃げていく。どんどん逃げていく。

瞬きする間もないような光明と震えるような静寂。光と影に翻弄される。いつかピントが合うのだろうかと、息をひそめてじっと待ち続け、すうっと息を吐きながらそっと指を落とす。

カシャ。