そこどけそこどけ私が通る

自転車に乗っていると、日向と日陰が交互にやってくる。ここ数日、日向と日陰の温度差を肌で感じる。真夏なら、どちらも暑い、と口からもれる。 今は、暑いと思ったら、肌寒いのくり返し。せわしない。暑いと感じて、汗が滲み出る前にひんやりとする。`日向から日陰へ、あるいはその反対のグラデーションに巡り合うことはない(あたりまえか)。

琵琶湖の湖東側

あくまで主観的観測だけれど、自転車道同士が対向しようとするとき、上の世代の方ほど避けない(避けるそぶりを見せない)と感じる。今日も、50代ぐらいの男女と数人すれ違ったが、互いが中央を空けるように左右にそれたのは、クロスバイクに乗っている男性だけだった。

自転車のフレームから望む琵琶湖

今日だけに限らず、少し、被害妄想的に書くと、「私が通る」という人がいる。道路の中央を走って避けない。避けない人の中には、結構なスピードですれ違う年配の方もいらっしゃる。正直、怖い。と、そんなことを書こうと考えながら自転車に乗っていたら、角を曲がりかけたとき、ヒンヤリした。危ない危ない。

なぜ避けようとしないのかは、わからない。運動能力的な要素か、あるいはバランス感覚の問題かもしれない。だとしたら、僕がその歳になって自転車に乗っていないと、「ああ、あのときの疑問が解けた」と氷解しないだろう。

自分の影

反対に若い人は、左右に避けるか、スピードを落とす。ただ、最近、左右の判断がつかず、ハンドルがユラユラしてしまう機会が増えた。これは、僕の身体能力が著しく低下したからだと評価している。そう評価するから、慎重に乗るように心がけている。

身の回りのごくわずかな人の行動観察から敷衍することは愚かで危険だと自覚した上で非難すると、自分でコントロールできる範囲は、他人を前提にしないほうが得策だと思う。「自分がコントロールできる範囲」がどこからどこまでかという問題が問題だ、と認識しているけど、その範囲を吟味するかしないかは、雲泥万里と思う。

人の振り見て我が振り直せと言うけど、自分の影を見落とす方が怖い。ややもすれば、影がないかのよう。日陰に突入して影がなくなった安堵、日向に突然現れる自分の影。影に追いかけられ、追いかける。そして、影を忘れている。影はどこからやってくるのか。コントロールしたつもりでも、日陰に乱される。やだな、足元が映らない影なんて。