誰の基準か

常識的に考えれば、それは非常識なことだろう。しかし、そもそも、常識などという外部の平均概念が、どうして自分の内部感情に干渉するのだろうか。自分をコントロールするものは、そんな外側の力では決してないはずだ。

いや、自分の感情こそ、この社会の外側にあるのではないだろうか。そうでなければ、他人の目が気になったりするはずがない。『まどろみ消去―MISSING UNDER THE MISTLETOE』 P.283

ひどい方向音痴の僕が地図を手に取る。東西南北がある。北を固定する人や風景に合わせて地図をくるくる回す人がいる。東西南北と緯度経度を把握できれば、自分の位置と進むべき方向が見える。

何かを書くとき、基準を考えずに書く。あるいは、「常識的に考えれば」無難な基準を設定して書く。前者の文章は、読み手に今まで気づかなかった視野を認識させる。洗練された思考が導く異の視点は読み手を惹きつける。ただし、条件があって、類い希な才能を持つ書き手に委ねられていること。たぶん、売れている書籍(ベストセラーを除く)の書き手は、この才能を纏っているのだ、と思う。後者は、書き手にとって易しいけど、読み手に沈思黙考させる機会がぐっと減る。

何かを書くとき、位置を考えて書く。たとえば、XYZの座標を頭に描き、緯度・経度・時間と定めたならば、自分の位置を把握できる。この座標軸を考えるように意識している。たいていの場合、ひとつの軸に「時間」が挿入されるので、残りは2つ(もちろん、それ以外も)。設定がおかしければ、自分の位置は幻想だ。幻想を自覚するためには、座標軸から算出された自分の位置を、客観的(主観から導出される観測)に観察する、と同時に、座標軸を疑い続けなければならない。

座標軸の設定作業を怠っていると、基準は外側からやってくる。「常識などという外部の平均概念」が基準になっている。

誰かの基準に従うより、自分の基準を作って、座標軸を設定したい。その視点からモノを書けるようになりたい。自分の基準が我が儘で天の邪鬼で、座標軸の中の自分の位置はとにかく非常識、いつかは中庸を捨て去り、両極に鎮座する対極の自分を存在させたい。

それには、ゆっくりと時間をかけて、少しずつ少しずつ環境を整備していかないと。