子供の発想にはかなわない

昨日は財産コンサルタントのH氏と打ち合わせ。ウェブサイトをリニューアルするのでサンプルをご覧いただいた。イメージを膨らませてもらうため。H氏との打ち合わせで自分の観察をよく確認する。ある現象について、正しいか間違っているか、良いか悪いかじゃなく、自分が想像している範囲内か想像できない範囲か。昨日は、少し前に書いた論理的に破綻する効率的な文章の観察を確認できた。

「量」の書き手はその「量」を上回る読み手の出現によって退場を命じられる、と書いた。このときは書き手が仕入れる「情報」と「流行」の量を示したけど、「情報と流行」を知識に置き換えても同じ。知識の量に執着する人は自分の知識の量を上回る人に遭遇したとき、自分が棲む領域から退場を命じられる(仕事に限定するとですが)。この話はまた後日にでも。

H氏に先日の感想(歯科医院の院内改装に携わった)を聞いてもらった。リニューアルオープンに贈ったオモチャの話。それを選んだときの自分の視点を話した。今回のリニューアルオープンにあたり、関係者の方々は、お祝いの花を贈ってこられた(様子だった)。恥ずかしいけど、それに気づいてはじめてお祝いといえば花なのかと認識した(花を見ていた自分は赤面していたと思う)。私はというと、新しく設けられた多目的ルームにとオモチャを持って行った。自分がオモチャ好きだし、多目的ルームで遊ぶ子供たちの姿を具体的に想像できたから。それに家で遊ばないようなオモチャならオモシロイかなと思った。

ガラスの熊

選んだオモチャは、積木・カプラ 200ピースカプラ デザインブック 初級・建物。欧州のオモチャと限定していたのにけっこう悩んだ。自分で組み立てた積み木に玉をころがすオモチャがあって、何度も手に取った。その積み木はセットになっていて拡張できる。ほとんどそれに決まりかけていたけど、玉を誤飲するかもしれないと思いやめた。自分が遊ぶときと違うし、子供がいないので四苦八苦。ようやくカプラに決めたとき、200ピースで組み立てられるモノがわかればいいかと考え、デザインブックもいっしょに買った。

そんないきさつをH氏に話したとき、「子供がいないからわかりませんね」と口にしたら、H氏は、「そう思うやろ。だけど子供はどうとでも遊ぶんやで」とおっしゃりながらご子息(子女)の話をされた。少し聞いただけでも唸った。電卓が携帯電話になるなんて震えた。すごいな、子供は。

ふくろうの音楽隊

月曜日にお伺いしたとき、院長先生からお礼の言葉をいただき、子供たちがカプラをどうやって遊んでいるか聞き、また唸った。震えた。デザインブックなんていらなかった。子供たちは5分、10分ほどで「何か」をどんどん組み立てていくとのこと。すごいな。デザインブックをマニュアルにしてほしいとは思わなかったけど、「こんなものが創作できるんだよ」ってぐらいの気持ちを持っていた。だけど子供たちには必要なかった。そんなものがなくても自分たちの世界を表現できる。自分たちが作りたいモノをそのまま作っていく。

デザインブックに写っている建物より、自分たちが頭の中で描いている創造物を忠実に再現していく。あるいは(何も考えていないかのように)積んでみて、「できあがった」ものが作りたかったモノかもしれない。ほんとうに素敵だ。大人は知識と引き替えに、発想と視点を失っていく。まるで発想と視点を払って知識を買っているかのよう。子供たちはどんな服を着ていようが走る。大人はスポーツメーカーの服を着ないと走らない。