伝達できないストレスが伝える

伝達できないストレスが、頭の中の映像と文字を伝えてくれる源なのかな。ここ数日、医院のリニューアル工事に参加していた。といっても、院内のネットワークを再構築していただけ。リニューアルにともない、院内のネットワークを見直して最適化した。ネットワークのデザインを正確に描き、必要な機器を過不足なく調達して、手順書を書けば、もうおしまい。あとは作業だけ。何も考えない。今回は作業中に不具合が発生したため、それを解決するプロセスが発生したので、テクニカルな知識を習得できたけど、作業自体に価値はない。それよりも、最適化されたネットワークの意味をお客さまへ伝えるほうがはるかにむずかしい。

名前を知らない花

昨日、気になる点の確認とやり残した作業の仕上げに足を運んだ。その後、食事へのお誘い。これは予定外だった。嬉しい。ただリニューアルして間もないので、バタバタしていて申し訳ないなと恐縮。こんなとき、相手に気をつかわせないようなはにかみができればいいなぁ、といつも思う。診療後、ついこの間もごちそうになったイタリア料理のお店(JR鶴橋駅/ミエット)に行った。

ひさしぶりに院長先生との食事(いつもはスタッフの方々もいっしょ)。時間はあっという間に過ぎていく。自分の考えを伝えようとしても伝えられない。そもそも単語や文章にできない自分にストレスを感じる。でも身体を蝕むストレスじゃない。むしろ心地よいほう。適度に負荷をかける運動のようなものかもしれない。どうやったら伝えられるか、伝わるか。わかった瞬間に「わかった」は手元からスルリと抜け落ち、錯覚だったと認識する。目の前にわからないの静寂。

伝達できないストレスを感じるようになって思うこと。立て板に水のような語りや書き物は、その時々に輝いているけど、数年(ひょっとすれば1年未満も)もすれば、あれは一体何だったと首をかしげるシロモノが多い。それよりも、伝えられない(能力的な問題じゃなく)、言葉にできない部分に大切なモノがある、と思う。

昨日の食事がそう。お礼の美辞麗句をメールで書き綴っても、あのときの喜びを伝えられないし、読んでいる人にも感じとってもらえない。伝達できないストレスを感じたとき、どれだけ楽しめるか。ストレスに目を向けず、手っ取り早い「借り物の知識」に手を出してはいけないな。借り物の知識を纏った饒舌家になるより、「素敵だ」と素直に相手に伝えられるようにしたい。素敵な笑顔で。