そのままで結構です

心臓を貫かれて

こんな書店があったらいいな。

  • 文庫本を買ったら何も言わずにそのまま渡してくれる(もしくは一言声をかける「このままでよろしいですか?」)
  • ベストセラーが平積みされていない
  • 可もなく不可もなしじゃなく、思い切り偏在している(主語はジャンルです)

たとえば一冊の文庫本をレジへ持って行く。店員に渡すと、「○○円です」と言って、そのまま袋に入れる。時には、紙のカバーをかける(最近はなくなってきた)。いつも決まって言う文句は、「そのままで結構です」。だけど、これでは足りないときも。店員はカバーをいらないと判断して袋に入れようとする。「それもいりません」と伝える。「そのままで結構です」では伝わらないと思い、「何もいりません」と言うときも(なんだかおかしな言い回しだなぁと思いつつ)。カバーや袋を用意する動作に遭遇するたび、「カバーや袋を必要とする人がまだ多いのかな」と疑問が浮かぶ。

カバーと袋の有無を尋ねるように心がけている人とそうでない人の違いかと思う(身の回りのごくわずかな書店だけの話)。些細な違いだけど、何か大切な要素が含まれているようでついつい観察してしまう。その観察結果から推察した錯覚。

委託販売制が主流だから書店は場所を貸している。売れなければ返品すればいい(参照: 本の返品4割 ムダ減らせ 小学館、同一書籍で併用制 販売方法は店が選択 (1/2ページ) – MSN産経ニュース)。ベストセラーはどんどん平積みされ、過去の名作(メジャーという意味じゃなく)は書棚に並んでいない。ステレオ的なポップで目を引き、企画モノ(夏休みに読みたいシリーズや読書感想文とか)で名作(メジャーという意味)を買ってもらおうと頑張っている。それらを眺めると、本の「中身」を売っているのではなく、本を売っているのだなと納得。

どちらでもない

自分の身の回りに目をむけると、生活の大半がRSSみたいになっている。四方八方から飛び込んでくる情報を受けて、それを返す能力は伸びる。返す能力とは、「知っている」という状態。たくさんの情報を知っている。他方、目を養うことが疎かになっている。自分で問題を考えて、自分で探す力を失ってしまったようで怖い。

本屋は偶然の出会いがあるから素敵だ。ランダムな意識からシークエンスな状態へ自分を近づける。はじめから読みたい本があるのならAmazonで注文すればいい。と、かつては考えていた。少し立ち止まってみよう。そもそもなぜ読むのか。多読はうんざりだ。「はじめから読みたい本」と書いたけど、なぜ「はじめから読みたい本」と言えるのか。「知っている」という状態から開放されるには? RSSな生活から脱獄するには?

その一歩が「そのままで結構です」。自分から伝える言葉。