(多数他人-自分)×意識=個人

今はもうない (講談社文庫)

「子供にはみんな、力を合わせることが大切だ、なんて幻想を教えているようだけど、歴史的な偉業は、すべて個人の仕事だし、そのほとんどは、協力ではなく、争いから生まれている。いいかい、重要な点は…..、ただ…..、人は、自分以外の多数の他人を意識しないと、個人とはなりえない、個人を作りえない、ということなんだ」 『今はもうない―SWITCH BACK』 P.483

8/5の火曜日、NHKプロフェッショナル仕事の流儀 宮崎駿のすべてを視た。久しぶりに88分間も坐ったからどっと疲れた。伝達効率の低さを再確認。88分間のなかから学んだことはひとつ。愛読ブログのひとつ、finalventさんの備忘を拝借する。

茂木「何か宮崎さんの表現者の秘密に関わっている気が……」

宮崎「奥の方の蓋開けると社会生活上問題が起こるんすよ、いろいろ。でも、そうものが自分たちの中にずうっと伝わってて、やっぱり物語作るとき、だからひょいと顔を出すんよ。それでびっくりするす。」

via: NHKプロフェッショナル仕事の流儀 宮崎駿のすべて 「ポニョ」密着300日、見たよ – finalventの日記

宮崎駿監督がサラッと口にした内容に震えた。集中治療室にいた友人に会いに行き、その友人を車の助手席に乗せて自宅まで送り届けたという行為が社会生活上問題を起こす。なぜなら友人はすでに死んでいたから。死んだ友人が迷ってはいけないと思い、自宅まで届けた。ここまでくればもう迷わないだろと一言残して助手席からお降ろした。友人を乗車させるとき、助手席のドアをきちんと開けて。大多数の人がオカルトかと一笑に付すかな。

本人だけが認識した事象に興味はない。震えたのは、その事象をきちんと自覚して、「奥の方の蓋を開けると社会生活上問題が起こるんすよ」と言葉に還元にしたこと。「宮崎駿」という固有名詞でなければ、「気でも狂ったか」と思いとりあげない。複雑な要素に遭遇してわからなくなったとき、それを記号化して単純化してきた。単純化できなければ、排除した。もしくは地中深くに埋めた。「誰か」と書くのは藪蛇だ(笑)

私が「感情を抑制する」人間であると聴くと驚く人がいるかも知れないが、実は驚くべきことに私は喜怒哀楽の感情を外に出さないことに心理的資源の大半を日々費やしている人間なのである。
私の内面に渦巻く感情の激烈さは「こんなもの」じゃない。
それを力ずくで抑制して「こんな程度」に収めているのである。
若い頃は「ウチダは自分の感情をあらわにしない。思っていることをそのまま口に出して言ったらどうか」と多くの人に責め立てられたものである。
でも私はその忠告に従わなかった。
私が感情的発言を抑制したのは、そうしたらみんなが私から遠ざかってしまうことがわかっていたからである。
私は内心を吐露することよりも「みんなといっしょに楽しくやりたかった」のである。
それでいいじゃない。
「自分を偽ってでもみんなと仲良くしたい」というのが私の根源的趨勢であった。
だとすれば、その趨勢をこそ「自分」と呼ぶべきであろう。
その程度のことで「偽る」ことが可能であるならば、それはもともと「自分」と呼ばれるに値しない幻想的なセルフイメージだったのである。
私は感情を抑制することで、おのれの欲望に忠実たらんとしていたのである。
この「感情を抑制すること」で欲望を実現するという戦略を採用する人は今少ない。

via: 感情教育 (内田樹の研究室)

「こんなもの」じゃないと書く行為自体が感情を前景化させているので感情を抑制していないのだろう。私にはできない。想像するだけ。ほんとうに抑制する人は、感情について書かないし、完全に制御するし、意識もしない、そもそも抑制という概念がない、とたぶん思う。

構造の矛盾を理解したうえで内田樹先生は書いた、と思う。それは伝えなければならない経験だから、と思う。

「偽る」は「ほんとう」があるから存在する。だから自分から「ほんとう」という単語を外側に出してしまえば、「偽る」は存在しない。あとは理屈をこねるか、ただ「行動」するか。行動の中心にあるのは、「なんだかよくわかりません」という屁理屈。