月別: 2008年8月

適正利益で事業を続ける

先日、歯科医院の院長先生と適正利益について話をした。歯科業界の業者が請求する金額に疑問を感じたから自分の分析を確認したかった。その翌日、引用記事を目にして驚いた。

住友化学では、蚊帳事業はもっぱら「社会貢献が目的」(米倉弘昌社長)と考えている。だが、主な購入先となっている国際機関からは、適正な利益は確保するよう要請されている。というのも、事業継続ができなければ、蚊帳の供給も止まってしまうからだ。

そのため、住友化学では「いったん上がった利益は学校建設などの形で、再度地域に還元することにしている」(米倉社長)という。

via: 米TIME誌も「世界一クール」と絶賛!アフリカで売れまくる住友化学の“蚊帳”(ダイヤモンド・オンライン) – Yahoo!ニュース

国際機関は適正な利益を確保するように要請していると書いてある。そのとおりだと思う。無償では困るのだ。なぜなら、無償の行為によって生じる赤字が事業を撤退させてしまえば現地の子供たちが困る。だから事業を存続できる程度の適正な利益を確保してほしいと訴える。至極もっともな話だ。

ところが、日本の現場では反対の現象が見受けられる(と思う)。「社会貢献が目的」の行為は無償が当然であって、ややもすればビジネスですら無償が当たり前と勘違いされている。相談が無償なのも首をかしげる。相談する人は自分の時間を消費していると同時に、相談される人の時間も消費している。相談される人は営業だからしょうがない面もあるだろう。だけど、法律(弁護士は含まれないのかな)や医療などの専門家へ相談する行為を無償だと誤解している。

市川園の価格は高いか安いか

大学を卒業して5年ほど税務関係の仕事に携わっていた。その経験をふまえて、法律や手続きなどでわからないことを知人や友人に相談しないよう気をつけている(一度、優秀な女性に社会保険の手続きを甘えてしまった)。相談するなら報酬料金をきちんと払うべきだと考えているし、自分で調べられる範囲なら税務署や社会保険事務所へ出向いて聞いている。

適正な利益に絶対基準はない。それは相対基準であって、他者が高いか安いかと判断する。たとえば文庫本や漫画の価格は安すぎる、と私は思うし、歯科の自費診療がどこも同じような価格に設定されている点を不思議に思う。だから、冒頭の歯科業界の業者が請求する金額には、それぞれの論理があっての価格だと考えるので、正しいや間違っていると言うつもりなんてない。それでも、必要とされなくなりつつある会社ほど、「ぼったくっている」と周りの人が口にするのはなぜだろう? そのあたりが興味深い。

市川園の梅ニンニク

写真は市川園の梅にんにく。この会社の商品を母親が年に2,3回届けてくれる。どれもおしいものばかり。今回、はじめて自分で注文してみた。梅にんにくは、「1日20粒までをめどに毎日食べてみて下さい。体感できます」と書かれてあって、続けてみたところ体感できた。だから注文した。市川園の価格は適正かどうか。「中にいる人(業者)」は何かしら意見を持っているはず。だけど、私は知りたいと思わないし、「市川園 評判」なんて検索する気もない。ただなくなったら困るな、とだけ思う(笑)

*価格と利益は違いますが、あえてごっちゃにして書いてみました。読む人が読めばつっこみどころ満載でしょう(笑)

子供の発想にはかなわない

昨日は財産コンサルタントのH氏と打ち合わせ。ウェブサイトをリニューアルするのでサンプルをご覧いただいた。イメージを膨らませてもらうため。H氏との打ち合わせで自分の観察をよく確認する。ある現象について、正しいか間違っているか、良いか悪いかじゃなく、自分が想像している範囲内か想像できない範囲か。昨日は、少し前に書いた論理的に破綻する効率的な文章の観察を確認できた。

「量」の書き手はその「量」を上回る読み手の出現によって退場を命じられる、と書いた。このときは書き手が仕入れる「情報」と「流行」の量を示したけど、「情報と流行」を知識に置き換えても同じ。知識の量に執着する人は自分の知識の量を上回る人に遭遇したとき、自分が棲む領域から退場を命じられる(仕事に限定するとですが)。この話はまた後日にでも。

H氏に先日の感想(歯科医院の院内改装に携わった)を聞いてもらった。リニューアルオープンに贈ったオモチャの話。それを選んだときの自分の視点を話した。今回のリニューアルオープンにあたり、関係者の方々は、お祝いの花を贈ってこられた(様子だった)。恥ずかしいけど、それに気づいてはじめてお祝いといえば花なのかと認識した(花を見ていた自分は赤面していたと思う)。私はというと、新しく設けられた多目的ルームにとオモチャを持って行った。自分がオモチャ好きだし、多目的ルームで遊ぶ子供たちの姿を具体的に想像できたから。それに家で遊ばないようなオモチャならオモシロイかなと思った。

ガラスの熊

選んだオモチャは、積木・カプラ 200ピースカプラ デザインブック 初級・建物。欧州のオモチャと限定していたのにけっこう悩んだ。自分で組み立てた積み木に玉をころがすオモチャがあって、何度も手に取った。その積み木はセットになっていて拡張できる。ほとんどそれに決まりかけていたけど、玉を誤飲するかもしれないと思いやめた。自分が遊ぶときと違うし、子供がいないので四苦八苦。ようやくカプラに決めたとき、200ピースで組み立てられるモノがわかればいいかと考え、デザインブックもいっしょに買った。

そんないきさつをH氏に話したとき、「子供がいないからわかりませんね」と口にしたら、H氏は、「そう思うやろ。だけど子供はどうとでも遊ぶんやで」とおっしゃりながらご子息(子女)の話をされた。少し聞いただけでも唸った。電卓が携帯電話になるなんて震えた。すごいな、子供は。

ふくろうの音楽隊

月曜日にお伺いしたとき、院長先生からお礼の言葉をいただき、子供たちがカプラをどうやって遊んでいるか聞き、また唸った。震えた。デザインブックなんていらなかった。子供たちは5分、10分ほどで「何か」をどんどん組み立てていくとのこと。すごいな。デザインブックをマニュアルにしてほしいとは思わなかったけど、「こんなものが創作できるんだよ」ってぐらいの気持ちを持っていた。だけど子供たちには必要なかった。そんなものがなくても自分たちの世界を表現できる。自分たちが作りたいモノをそのまま作っていく。

デザインブックに写っている建物より、自分たちが頭の中で描いている創造物を忠実に再現していく。あるいは(何も考えていないかのように)積んでみて、「できあがった」ものが作りたかったモノかもしれない。ほんとうに素敵だ。大人は知識と引き替えに、発想と視点を失っていく。まるで発想と視点を払って知識を買っているかのよう。子供たちはどんな服を着ていようが走る。大人はスポーツメーカーの服を着ないと走らない。

伝達できないストレスが伝える

伝達できないストレスが、頭の中の映像と文字を伝えてくれる源なのかな。ここ数日、医院のリニューアル工事に参加していた。といっても、院内のネットワークを再構築していただけ。リニューアルにともない、院内のネットワークを見直して最適化した。ネットワークのデザインを正確に描き、必要な機器を過不足なく調達して、手順書を書けば、もうおしまい。あとは作業だけ。何も考えない。今回は作業中に不具合が発生したため、それを解決するプロセスが発生したので、テクニカルな知識を習得できたけど、作業自体に価値はない。それよりも、最適化されたネットワークの意味をお客さまへ伝えるほうがはるかにむずかしい。

名前を知らない花

昨日、気になる点の確認とやり残した作業の仕上げに足を運んだ。その後、食事へのお誘い。これは予定外だった。嬉しい。ただリニューアルして間もないので、バタバタしていて申し訳ないなと恐縮。こんなとき、相手に気をつかわせないようなはにかみができればいいなぁ、といつも思う。診療後、ついこの間もごちそうになったイタリア料理のお店(JR鶴橋駅/ミエット)に行った。

ひさしぶりに院長先生との食事(いつもはスタッフの方々もいっしょ)。時間はあっという間に過ぎていく。自分の考えを伝えようとしても伝えられない。そもそも単語や文章にできない自分にストレスを感じる。でも身体を蝕むストレスじゃない。むしろ心地よいほう。適度に負荷をかける運動のようなものかもしれない。どうやったら伝えられるか、伝わるか。わかった瞬間に「わかった」は手元からスルリと抜け落ち、錯覚だったと認識する。目の前にわからないの静寂。

伝達できないストレスを感じるようになって思うこと。立て板に水のような語りや書き物は、その時々に輝いているけど、数年(ひょっとすれば1年未満も)もすれば、あれは一体何だったと首をかしげるシロモノが多い。それよりも、伝えられない(能力的な問題じゃなく)、言葉にできない部分に大切なモノがある、と思う。

昨日の食事がそう。お礼の美辞麗句をメールで書き綴っても、あのときの喜びを伝えられないし、読んでいる人にも感じとってもらえない。伝達できないストレスを感じたとき、どれだけ楽しめるか。ストレスに目を向けず、手っ取り早い「借り物の知識」に手を出してはいけないな。借り物の知識を纏った饒舌家になるより、「素敵だ」と素直に相手に伝えられるようにしたい。素敵な笑顔で。

記憶? 学習? 学問?

「シロクマの毛はなぜ白いのか」と質問されたらドキドキする。あっ、質問は適切な文章じゃないかも。答えの仕組みをちゃんと理解したいからもう一度中学の理科を勉強し直さないとダメだなぁと思った。クイズ番組に出題されたかもしれない。だけど、そのときの解答は「名詞」または「固有名詞」にすぎない。今のクイズ番組がどんな問題を出題しているか知らないけど、テレビの制限を考慮に入れると、トリビアルな問題に終始していると想像する。その手の問題を解く能力は記憶だ。

回答がもたらす現象と仕組みを理解する過程が学習だと思う。だから記憶と学習は混同しちゃいけない。記憶は答えを暗記し、学習は(答えを知った状態で)答えに到達するプロセスを学んでいる状態だ。算数なら計算して解を算出する。そのとき、計算ができることに一喜一憂してしまい、定理や公式をおざなりになってしまう。一度正しい式を作成できれば計算はコンピューターができる。だけど公式を暗記する。証明を知らずに。

公式を暗記したり式を計算する作業は、自ら問いを作成する領域に足を踏み入れていないような印象を受ける。だから学問と言わないのかなぁと考えたりする。学問という漢字を絵画として眺めると、問いを学ぶと見える。それは問いを自ら作成する思考であり、ひとつの問いを作成するには、そもそも考えなければならない事象は何かをまず探求しないと掬い取れない(ように感じる)。さらに、ひとつの問いが複数の問いを招き入れ、無限のごとく広がっていくのじゃないかな。だから、一つ知れば十知らないことが増える、と研究者は言う(と何かで読んだ)。

子供の科学

仕事でも同じだ。マーケティングやプロモーション、戦略やSEO、SEMといった専門用語(なんて思わないけど)を並びたてる。経営用語しかり。愚痴を言えば、そういった専門用語を口にしたりメールで使う人は自分の知らない専門用語に出くわすと、カメレオンみたいだ。記憶していない恐怖と記憶している人への畏怖。同時に、専門用語に麻痺している。自分で調べようとしない。

仕事で歯科衛生士の方々と会話する。会話している最中は意識していないのに、一人になって会話を再構成するとき、印象に残る人は共通点を持っている。それは、患者に記憶させないで学習してもらう術を追求している点。学問まで望めないし、また望まない。患者と話すときタームを駆使して患者に覚えて帰ってもらう、のではなく、なぜそうなるかを教え、いっしょに考える。やがて患者が自分で学習していくようにうながしていく。そのプロセスに専門用語は用いられない。

学問してますなんて胸を張って言えないし、言う必要もない。それに私はまだ学習をはじめたばかり。それもスタートラインに立ったにすぎない。でも、「あっ、これがひょっとして学問かもしれない(いやぁ、そんなわけないでしょう)」と体感できるホビーをいつの日かひとつ掴みたい。

思うほど時間は残されていない

日本人の平均寿命は、男性79歳・女性85歳らしい(平均に意味はないと思うけど)。人間はだいたい80年くらい生きるらしい。約3万日(29,200日ほど)。そのうち1/3を睡眠やぼぅっとしている時間としてまとめて過ごしたとしよう。27歳まで寝ていたことになる。今、36歳だからようやく9歳。奇跡的に平均寿命まで生きても残り2万日しか残されてない。平均寿命まで生きるなんて考えるのはムダだし、生きるわけないのでもっと少ないだろう。

朝顔

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そのままで結構です

心臓を貫かれて

こんな書店があったらいいな。

  • 文庫本を買ったら何も言わずにそのまま渡してくれる(もしくは一言声をかける「このままでよろしいですか?」)
  • ベストセラーが平積みされていない
  • 可もなく不可もなしじゃなく、思い切り偏在している(主語はジャンルです)

たとえば一冊の文庫本をレジへ持って行く。店員に渡すと、「○○円です」と言って、そのまま袋に入れる。時には、紙のカバーをかける(最近はなくなってきた)。いつも決まって言う文句は、「そのままで結構です」。だけど、これでは足りないときも。店員はカバーをいらないと判断して袋に入れようとする。「それもいりません」と伝える。「そのままで結構です」では伝わらないと思い、「何もいりません」と言うときも(なんだかおかしな言い回しだなぁと思いつつ)。カバーや袋を用意する動作に遭遇するたび、「カバーや袋を必要とする人がまだ多いのかな」と疑問が浮かぶ。

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こだわるに拘泥しない

手染メ屋さんのTシャツ

先日、 天然染料のオーガニックコットンTシャツなどを作っている手染メ屋【京都】さんでTシャツを一枚買ってきた。次は白地のTシャツを購入して手染めを教えていただくつもり。お店で手染め講習を受けながら自分で染める。はじめてお店に伺い粗相をしてしまったけど、ご主人と奥様の応対に感銘を受けた。よいお店に出会えた。帰宅後、お礼のメールを書いた。

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