I think about what I must think

成果を上げられなかったビジネス書

賃貸生活をしていて一つだけ悩みがある。部屋のなかで増殖する本。バカなお話。買うのをやめればいい。物理的に絶対の空間に収まる量ははじめから決まっている。それに逆らうなら犬を飼うために家を買う、あるいは犬を飼える賃貸に引っ越す。なかにはそういう人もいて書庫を増築したり倉庫を借りたいとか。

いま、少しずつ部屋を散らかしている。かつて購入したハードカバーのビジネス書を捨てるため。危険水域に達してきた文庫本と差し替え。この作業は一度にやろうとすると疲れる。疲れたくないから少しずつ。本棚や堆く積んだプラスチックBOX、そこかしこで無造作に置いてある本を選別。ずいぶん読んだなぁ。読み方が悪いうえに記憶しようとしない、おまけに理解力が乏しい。だからひとつも身につかなかった。はやい話、それだけ真剣でなかったということ。ビジネス書の内容を体得できなかったけど、一つの法則を確立した。

「何を考えなければいけないのかをまず考えなさい」

ビジネス書を手に取って目次をパラパラめくる。なぜこんな本を買ったのかすら思い出せなかったり。目の前の文章は切れ味するどく、明快なメソッドが満載。なのに一体いくつ実行しただろう。知識を獲得した一瞬の満足感と、本の内容を受け売りしてさもアドバイスしているかの振る舞いに自己陶酔はあった。まるで手淫だな。

毎日少しずつ部屋を散らかして気づく。自分の問題を探求していたのではなく、ベストセラーやトレンドを追っかけたり、顧客の代わりになって情報収集していたのだと。メソッドは課題を抱えた人に助け船を出す。その船を造ったのはビジネス書の著者たち。なかには海外から輸入したりコピー&ペーストされた本もあるだろう。それが「ビジネス」だからビジネス書なんだと納得。とにかくメソッドを作った人は成功した(何が成功かの定義は別として)。その人たちは問題を発見した。だから解決策を作った。ビジネス書は試験の答案であって問題じゃない。自分が解く問題はそれでないかもしれないし、なにより自分で問題を作成していない。数学の問題を作成しなければならないのに国語の解答を読んでいることに気づいていなかった。

仕事をしていると、(職場の)人の教育についてときおり尋ねられる。私は人を教えたことがないから答えられない。答えられないから問題を考える。何が問題か。教える側と教わる側の差異、認識の差異が浮かび上がる。理解と誤解の紙一重。認識の差異は、教える側の準備は整っているのに教わる側の準備が整っていない時空から生じる。だから正しい表現で手引きを書いても、教わる側の準備が整っていなければ誤解は生じる。教わる側の準備が整っていれば詳細なマニュアルでなくても理解される。それが理解できたとき、じゃぁ教わる側の準備とは何かなと考える。意味。回りくどいと言われる、だけど自分の思考の理路はこうだからしょうがない。頭が悪いと自覚しているだけ救いかな。

今の自分を踏み台にすれば理解は深まる。絵を描きたいと思っている。スケッチの方法を解説した書籍はあるはず。だけど、そもそも「何を描きたいのか」を自分が咀嚼できないと方法論なんて机上の空論。描く対象が決まってから、対象をどう描くかがやってくる。下手な鉄砲も数打てば当たるという。先人が残した言葉はそのとおり。だけど、それは「何を打たなければいけないのかをわかった」から当たるのじゃないのって屁理屈を考えたり。ただし、考えるだけで行動をしない愚は避けたい。それならはじめから考えない。

ビジネス書の内容を存分に活用できなかった。それが反省だ。だから捨てる準備をしながら考える。何を考えなければならないのかを考える。自分のメソッドを決めた。

  • ハードカバーのビジネス書を買わない

これが数多あったビジネス書から得た方法。