スポーツ観戦が好き。特定のスポーツ観戦じゃなく幅広く観る。といっても、「観戦」が好きじゃなく、スポーツの現象を眺めるのが好きといった感じ。眺めた現象を自分で再構成するのが習慣になっていた。「観戦」自体が好きじゃないと書く理由はあって、昨年あたりから観る機会が減ってきた。好きなら減らない(と思う)。減った理由は単純で、時間配分を見直したから。ベクトルが変わると、それに応じて費やすリソースと配分の時間は変わる。おまけに勉強(そんな大げさものじゃないけど)したいから、その分の時間を増減させないといけないので。
それでも欠かさず観るスポーツはある。その一つが全英オープン (ゴルフ) 。他にはウィンブルドン選手権やモナコグランプリとか。共通点は分かってもらえるかな。今年の全英オープンは眠い目をこすってテレビにかじりついた。グレグ・ノーマン のプレーに魅了された。もちろんゴルフはやったことないのでわかるはずもなく、ひたすら表情と振る舞いをインプットしていた。
私は「顔」と「声」に興味を持っている。興味というより観察の対象のほうが適切。「顔」には滲み出る「何か」があると錯覚しているし、「声」には惹きつける(あるいは忌み嫌われる)「何か」があると誤解している。身体が感知する信号みたいな。なかなか言葉にできませんね、やっぱり。
前置きが長すぎた。興味深い記事を引用。
翌最終日の2番ホール、ティーショットをラフに打ち込んだ尾崎は、ドライバーを持ったままセカンドショット地点まで歩いていった。尾崎は、そこでいつもそうするように、ボールの後ろの芝生をドライバーで押さえつけると、クラブをアイアンに持ち替えてショットを打ったのだ。彼は、前日までも同じような行為を繰り返していた。いやそれは長年にわたる彼特有の「習慣」でさえあった。
尾崎将司の「習慣」にノーマンは競技委員を呼んだ。
ノーマンは違った。競技委員を呼ぶと、尾崎の行為は「ライの改善」に該当する可能性があるという指摘を行ったのだ。“世界最強”で、かつ当時の“世界最良のゴルファー”からの指摘はまったくもって妥当なものであった。
協会、主催者、同伴競技者、ゴルフジャーナリストたちが見て見ぬふりをしてきた「習慣」に対して日本ゴルフ協会の競技委員はノーマンに言い放った。
「日本と米国では芝の質が違うため、日本ツアーではそれはルール違反には当たらない」という意味不明の説明でノーマンの忠告を退けたのだ。
ノーマンは次の言葉を残して日本を去った。
「ゴルフのルールは誰に対しても平等であり、世界共通でなければならない」
今より良いクラブを常に求めた尾崎将司と同じクラブを調整しながら長く使った青木功。日本の尾崎と世界の青木。ゴルフの外側にいる人ほど対比にのめりこみやすい。対比は現象を観察するのに必要かもしれないけれど、対比の表面張力に頼ると思考はあらぬ方向へすすむ。
毎日、自分の顔と対面する。見ているようで見落としている。馬齢を重ねた私の顔を自分で認識するのは困難だ。だから他者から自分の顔を確認する。その作業を怠った顔にはなりたくないなと独りごちる。