見ているものより見落としているもの

昨年からラディッシュと青紫蘇を育てている。育てると書けばおおげさなので家庭菜園の初級といったところ。

昨年も今年もムシがやってきた。ムシが青紫蘇やラディッシュの葉を食べている。下の写真(拡大版)の中央にいる。特にラディッシュの葉は穴だらけに。それがおもしろい。昨年はオモシロイだけだった。今年、水をやりなりながら小首をかしげた。

青紫蘇につくムシ

「どうしてムシはココに葉があると認識しているのだろう」

そぞろ歩き(ムシに使うのは変だけど)をしているとたまたま葉があったとか(そんなわけない)。じゃぁ、嗅覚か触覚か視覚か。はたまた、親が産みつけてもともとココで生まれたのか。疑問はつきない。

日常の生活に身を沈めたとき、見ているものより見落としているもののほうがたくさんあると思う。あたりまえと受け取ってしまうから不思議に思わない。「不思議」という言葉を頭に思い浮かべる時間と空間が少なくなっているのかもしれない。

京都の町屋は鰻の寝床。その玄関の前に立ったとき、奥行きを脳裏に描く。無意識の作業。住宅も同じ。玄関の真正面に立って側面と裏を無意識に描く。空間の認識を映像として補完しているのかなぁと勝手に想像している。それは「不思議」よりも反復作業みたいなものだと。だけど、いざ鰻の寝床に招かれたとき、奥行きが頭の映像より深ければ驚く。頭で描いた仮想現実と身体が感知した実体とのズレに違和感を覚えるからなのか。差異を認識できたとき、不思議がやってくる。

鏡も不思議だ。毎日歯を磨きながら上下がひっくりかえらないのはなぜだろうと。左右は反転するのに。上下は反転しないのか。

森羅万象の仕組みに不思議をあてはめて探求できれば解決できるかもしれない。だけど不可能だ。不可能よりも先に精神が破綻をきたすかもしれない。だから頭は強制的に「スルー」させているのだろうか。そんな不可能を評価したあと、スルーし続けるか、それとも抗うか。それは身体の反乱。頭と身体の二元論を超越する苦行。

私の目の前にいる人々。私はその人を見えている。だけどほんとうは見落としているもののほうがたくさんあるのだろう。見落としているものがたくさんあると認識させてくれるのは他者でしかない。