私には関係ない

今日、JR京都駅のポルタに展示されている『洛中洛外図』 上杉本の高精細複製作品を眺めていた。そこへ警備員さんが声をかけてきた。

わかりますか? (私が少し首をかしげると)これが清水寺で…これがナニナニで、春・夏・秋・冬で…..

と説明してくれた。びっくりした。人なつっこい顔と優しい声だけにフォーカスすると説明に違和感を抱かない。だけど、首から下の容姿を認識すれば、普通なら想定外のシチュエーション。この違和感というかモヤモヤを持って帰るのはイヤだなぁと思い、無邪気を装って尋ねてみた。

よくご存じですね。

そしたら警備員さんは答えた。嬉しそうな笑顔で。こういう笑顔ができる人はステキだと心の中で思った。

いえね、学芸員さんの説明が耳に入ってくると、理解できるようになって…..それで説明をはじめました。

「説明」という単語を耳にしてギモンが頭によぎる。「説明」と「解説」は違うのだろうか? 帰ったら調べてみよう。そんなギモンから、警備員さんのふるまいを他者はどう受け入れるのかななんて連想ゲームのようにつながっていった。警備員さんのふるまいが越権行為かどうか私には判定できない。質問に答えられない場面に遭遇するかもしれない。だけど、私は警備員さんの説明を素直に聞いていた。

「私には関係のないこと」と「自分の仕事」を判定する人はいる。大半の判定基準は「量」であって、たんにやりたくないだけかなぁと思う。「与えられた仕事」みたいな幻想があって、その仕事を除けば私には関係ないことなのかも。あるいは、「役に立たない仕事」と錯覚してやらないのかと。もしそうなら、「仕事が役に立たない」と判断する自分は、世間の役に立っているのだろうかと不思議に思ったり。自分が役に立つ人だと自分自身を評価した経験がないので興味津々。「私には関係のないこと」と判断した人はたとえ手持ちぶさたであっても「仕事をしている」とふるまう。もちろん何でも引き受けろとかってわけじゃない。

警備員さんの数分の説明を聞いてから私はその場を離れた。少し距離を置いたところからしばらく洛中洛外図を説明する警備さんを眺めていた。出会った人々の反応は千差万別。驚き、訝り、喜び、作り笑い、相槌….

でも、わずかな時間の間とはいえ、なにもトラブルは起こらなかった。それでいいよなと独りごちて洛中洛外図をあとにした。