篤姫とラストフレンズ 家族の意味

篤姫ラスト・フレンズを視ていると家族の意味を問いかけられている気がした。篤姫のアカデミックな時代考証やドラマ仕立ての作風は捨て置き、岸本瑠可の性同一性障害についての議論も受け流して、画面の映像だけにフォーカス。150年ほど前に、実の娘を養女に差し出し、その娘が江戸へ出立する際、殿様から謁見を賜った。もちろん「恐悦至極に存じます」みたいな。娘の「位」が上がると「姫」になる。男子であっても養子に出され、三男ともなれば喰うこともままならなかったのかもしれない。現代から時代を眺めると、「政略」という単語があてはめられるけど、「かっこにくくる」とどうなのだろう。ああ、そうか「家族」という言葉がいつから使われ出して、それぞれの時代、どういう概念を想定していたのかも考慮にいれないと。愚問はなりたたないな。むずかしい。

かたや藍田美知留。及川宗佑の子供を産み、岸本瑠可と水島タケルの四人でシェアハウスで暮らすところで終わった。SPでは子どもも少し大きくなっていたな。最終回のラストシーンを視て、「家族」が頭によぎった。現代の家族という概念をあてはめて。テンプレートなら藍田美知留と子どもだけが親子、岸本瑠可と水島タケルは他人。岸本瑠可は自分を女性と思っていないし、水島タケルはセックス恐怖症。この先、どんな暮らしが待ってるのだろう。「いけるところまでいってみよう」みたいなことをタケルは口にしたけど、どこまでいけるのだろう。テンプレートなら誰が父親で誰が母親でみたいになるけど、「みんなで育てる」みたいな雰囲気があって。で、SP。タケルは姉からの電話に「家族ができた」と笑顔。だから姉さんを許すという。同居人じゃなく家族なんだ。家族と引き替えの免罪。家族のもつ力なのかなと。

150年前の家族を現代のテンプレートで解釈すると理解できないのはわかるけど、「かっこにくくる」と自分の浅学と無知に嘆き、想像の脆弱にため息。だから、「かっこでくくる」必要のないラスト・フレンズを視て、タケルに「家族」と言わしめた脚本家の構えに圧倒された。

傍らに家族。後景から前景へ描き直す時があっていい。

蛇足。

ドラマのなかで「商品を売る」のはやっぱり空々しい。携帯全盛の時代、タケルが姉と「クールな固定電話」で話すシーンはさて。及川宗佑の調度品に生活感はない(それがネライかもしれないけど)。その他、もろもろドラマ全体がCM化してしまっているところがザンネン。