[Review]: クライマーズ・ハイ

クライマーズ・ハイ (文春文庫)

《日航機123便は長野・群馬県境に墜落した模様!》ーーーーー北関東新聞の遊軍記者悠木和雅が友人の安西との約束を果たすため帰宅しようとしたそのとき、共同通信社の「ピーコ」が伝えた。日本航空123便墜落事故、それは「単独の航空機事故としては世界最大」を伝えるはじまりだった。死亡者数は乗員乗客524名のうち520名、生存者は4名。完全遺体492, 離断遺体1143, 分離遺体351, 移棺遺体79, 総合計2065体。完全遺体のうち五体がすべて揃っていたのは177体、離断遺体のうち、部位を特定できたのは680体、部位不明の骨肉片は893体。遺族の方々はいまだ癒されることなく、何かすがって懸命に生きている。『クライマーズ・ハイ』は地方記者の現場が描かれている。だから、事故の一報を受けたあと「どっちだ?」が当初の最大の問題だった。群馬なら「ウチの事故」、社の総力を挙げなければならない。若手は「めぐってきたチャンス」にはやる気持ちを悠木にぶつける。世界最大のヤマを誰よりも早く踏みたい。かたや年嵩の男たちは精彩を欠く。

悠木も同じ気持ちだからわかる。

群馬で事件と言えば、「大久保事件」と「連合赤軍事件」を指す。大事件という形容は当たらない。地元記者にとってそれは「後にも先にも二度と起こらない事件」だった。[…]二つの事件は昭和四十六年、四十七年と立て続けに起こった。だからその時期記者をやっていた人間たちは「二度と起こらない事件」を二つまとめて経験したことになる。

「大久保連赤」と詰めて呼ぶ。担当した記者の多くはその後の記者人生を一変させた。一言で言うなら天狗になった。十三年もの間、事件の遺産で飯を食ってきた。「大久保」の昔話で美味い酒を飲み、「連赤」の手柄話で後輩記者を黙らせ、何事かを成しえた人間であるかのように不遜に振る舞ってきた。 『クライマーズ・ハイ』 P.49

記者の能力があろうがなかろうが、偶然とった金メダルを首からぶらさげて社内を闊歩する年嵩の男たち。そのメダルの色が一瞬にして色褪せた。それを感じとったから男たちは複雑な胸の内を抱えていた。やがてこの複雑な胸の内が組織の相克を生み出し、「世界最大のヤマを報道する意味」が悠木の目の前に立ちはだかる。凄惨な現場を踏んで変わり果てた若手、現場を「商売」にしようとJALの主翼をバックに記念撮影する幹部、販売と記者の確執、上層部の派閥闘争、単独の航空機事故としては世界最大の現場からわずかに離れたところで男たちは別世界に棲んでいた。

佐山が書いた二度目の現場雑感。

【御巣鷹山にて = 佐山記者】

若い自衛官は仁王立ちしていた。

両手でしっかりと、小さな女の子を抱きかかえていた。赤い、トンボの髪飾り。青い、水玉のワンピース。小麦色の、細い右手が、だらりと垂れ下がっていた。

自衛官は天を仰いだ。

空はあんなに青いというのに。

雲はぽっかりと浮かんでいるというのに。

鳥は囀り、風は悠々と尾根を渡っていくというのに。

自衛官は地獄に目を落とした。

そのどこかにあるはずの、女の子の左手を探してあげねばならなかったーーーーー。

『クライマーズ・ハイ』 P.103

本作品はこの夏映画で上映される。はやくもこの文章を映像化したシーンが紹介されていた。あの現場をなんとか再現しようとしたスタッフに感謝しながら佐山役の堺雅人は口にした。「(たとえ映画のセットが正確に再現されていようと)ココで520人が亡くなったのじゃない。それだけは忘れてないでおこう」と。そのとおりだと思う。

作者の横山秀夫氏は自身の記者時代に遭遇した日本航空123便墜落事故取材の体験をまとめて本作品を世に送り出した。ただ、事故そのものをテーマにしたのではないと思う。事故を素材に報道のありようを問いかける、もう少し踏み込むなら人の命を問いかけているように思う。

二十歳ーーー悠木の半分しか生きていない娘がメディアの本質を見抜いていた。

命の重さ。

どの命も等価だと口先で言いつつ、メディアが人を選別し、等級化し、命の重い軽いを決めつけ、その価値観を世の中に押しつけてきた。

偉い人の死。そうでない人の死。

可哀想な死に方。そうでない死に方。

[…]

《私の父や従兄弟の死に泣いてくれなかった人のために、私は泣きません。たとえそれが、世界最大の悲惨な事故で亡くなった方々のためであっても》

『クライマーズ・ハイ』 P.411

二十歳の娘が書いた投書にある”従兄弟”はかつての悠木の部下。その死がいまだ悠木の背に重くのしかかっていた。この作品が日本航空123便墜落事故だけに焦点をあてず、何か冗長的な感覚を抱かせるのは、この娘を登場させるためじゃないかな。そして、この娘の言葉がすべてだと思う。

悠木が全権デスクを指名されたにもかからず、組織の相克に巻き込まれていくなかで、随所で「判断」が迫られる。だけど、その判断は決して論理で導き出されなかった。どちらかといえば叙情であり、情動が論理を押しのけ意志を決定してきた。そしてその決定は周囲をさらに沸き立たせる。だけど、最後に佐山から発せられる言葉も情動だ。その言葉に悠木は落涙する。

論理か情動かじゃなく、人が判断するとき、大きく占める要素は何か? 見誤ってはいけない。