[Review]: 3分間コーチ

ひとりでも部下のいる人のための世界一シンプルなマネジメント術 3分間コーチ

コミュニケーション、コミュニケーションと口にするけど、コミュニケーションが免罪符になっていたり。「コミュニケーションって言っておけば問題意識を持っていると思ってもらえる」という気持ちもなきにしもあらずかな。評価制度や人事制度のサービスを眺めていると、案外、提供している側に人事や評価がなかったりする。あるいは、人が人を評価することの不可能性を評価する人が自覚しているかどうかをスルーして「制度」に萌えだったり。でないと「商品」にならないからあたりまえですが。評価する側になると、「神」になったかのように「人を錯覚する」人になる。そういう人は評価のパラドックスに気づいているのかなぁと興味津々。

<三分間コーチ>は、今すぐ可能なマネジメント手法として考えられました。一回に三分ぐらい、コーチとして部下と話す、というマネジャーにも部下にも負荷のかからない関わり方、そして、お互いに効果の上がる方法として考案され、実際に試され、効果を上げている方法です。[…]<三分間コーチ>は、次の<二つの時間>をとることを最優先させた、きわめてシンプルなマネジメント手法です。『ひとりでも部下のいる人のための世界一シンプルなマネジメント術 3分間コーチ』 P.4

二つの時間とは、

  1. 部下について考える時間
  2. 部下と的を絞った短い会話をするための時間

であって、この二つの時間をとることを最優先にするマネジメント手法が3分間コーチ。なるほどと感じたのは、3分間コーチでなくて、3分間コーチと3分間コーチの「間」。3分間コーチのイメージは、駅のプラットフォーム。たとえば、電車が来るまでの待ち時間、あなたと部下が駅のプラットフォームで会話する。そんなイメージ。やがて電車がやってくる。乗車は仕事の実践に例えられる。そして、次の駅で降りる。乗り換えの電車や次の電車が来るまでまた会話をする。じゃぁ「間」は?

待ち時間と待ち時間の「間」、いわば乗車しているとき(=仕事の実践)に私たちは<自分の内側の会話(=セルフトーク)>を経験する。自問自答という形。プラットフォームで交わした会話のなかで反応できなかったけど頭に残っている要素がある。セルフトークは要素を問いに変換して答えを探し続けたり、要素をアイデアに育む展開に必要不可欠。答えを探し続けるプロセスや会話の内容を咀嚼するプロセスはセルフトークで生成される。セルフトークは行動に影響をもたらす。

よく、気づけば行動は変わると思われるようですが、気づいただけでは行動は変わりません。<気づき>には、いわば暗闇をサーチライトで照らすような働きがあり、それは貴重なものですが、サーチライトで暗闇を照らしただけで行動が起こるわけではないのです。ライトに映し出されたものを見て、熟考し、選択する時間が必要です。<熟考>し、次に<選択>してはじめて行動に移すことができます。『ひとりでも部下のいる人のための世界一シンプルなマネジメント術 3分間コーチ』P.46

私は「気づき」を大切にする。だけど、それだけじゃ足りないと反省。

  • 「気づき」→「行動」は虫がいい話
  • 「気づき」→「熟考」→「選択」→「行動」のプロセス

「気づき」は視座を変える。視点や視座の変化は解釈の幅に広がりをもたらし時間軸を長くさせる。それらの変容が行動に影響を与える。だから「気づき」が行動の原初だと私は確信しているけど、行動までの「間」を待ったり寄り添ったりする会話ができていなかったわけだ。気づきと行動の関係は上司と部下にとどまらない。ジョークのような実話を耳にすることもしばしば。たとえば、コンサルタントを入れて事業計画を作成したけど、数年経つとまるで予定が違う。で、また新しい事業計画を立てる。新しい計画は役員全員が関与して納得した。そして蓋を開けると、「途中でいろいろ予定外のことが起こった」から計画にムリがあったとあきらめる。事業計画は立派だけど実行されない組織。おしゃべりだけど会話していない上司と部下。

ほんとうの会話とは、創造以外の何ものでもありません。『ひとりでも部下のいる人のための世界一シンプルなマネジメント術 3分間コーチ』 P.46

ほんとうの会話は「気づき」を産み、「間」を経て「行動」へ導く。だけど、そもそも気づきを生み出す「きっかけ」は何だろう? もちろん会話の量と質、ココで言うなら「3分間コーチ」の頻度と内容だ。だとしたら頻度を上げて、内容を濃くしていけば「きっかけ」が掬い取れるのかな。そのあたり根っこが気になる。

コミュニケーションが活性化するには、それなりの環境が必要です。その環境とは、談話室ではなく、イントラネットでもなく、<問いの共有>です。会社全体で、部や課で、上司部下の関係で、<問いが共有>されていることです。それによって、コミュニケーションを始める動機が生まれます。

<問いが共有>されていればこそ、問いかけに対して、自分はどのような行動をとるべきか、どのような判断を求められているのか、また、自分はどの位置にいるのか、そられを知るために、コミュニケーションを交わす必要が出てくるでしょう。いっっしょに仕事をしている人たちとの間でコンセンサスをとる必要も感じてくるでしょう。『ひとりでも部下のいる人のための世界一シンプルなマネジメント術 3分間コーチ』 P.150

<問いの共有>のための問いが問われる。ああ、ややこしい。ややこしいけどとても大切だと思う。一見、「問い」のようで「非生産的な問い」は山ほどある。あるいは、「自分は問うている」けど「相手が問うてこない」という錯覚。そもそもコミュニケーションが大切かと問われれば、YESと答えるのにコミュニケーションが放置されている。放置されていないくても、コミュニケーションが組織を疲弊させる。「関わりをつくり出せない」コミュニケーションだから。不思議な点は、コミュニケーションの質問をしたとき、「自分のコミュニケーションに問題がない」と答える人が7割以上にのぼる。いったいどうして?

冒頭の評価のパラドックス。評価が厳密かつ公正であるならば、評価者は評価される者に対して「神」の視点を持っている。「神」の視点は全方位から自由に評価対象を観察する。だとしたら、「神」の視点は評価の基準を自由に設定する権限を与えられている。そんなはずはない。評価は、評価する人と評価される人に分かれたとき、逕庭が存在し、不当を抱かせる。

径庭を自覚し、不当を認識している人は、評価はコミュニケーションを媒介するひとつと受け取り、「今、私たちのコミニュケーションはうまくいっているのか」という視点に立っているように思う。であったとしても、眼前の数字は現実。だから制度が算出する給与に抗えない。どこかで折り合いをつける努力を怠らないのじゃないかな。コミュニケーションを解く鍵は、原初の気づきにある。それは「そもそもコミュニケーションって?」という「非生産的な問い」から生まれる。皮肉。「3分間コーチ」はHOW TO的な気づきを私に与えてくれた。それ以上に、3分間コーチへの難しさ、それは原初の気づきを持たない人、コミュニケーションって何よ?と問わない人、つまり非生産的な問いを共有しない人が「3分間コーチ」をする難しさを再確認させてくれた。