茶髪がひとりもいない男子バレーボールチーム

最近、ときおり目にする先輩-後輩の礼節とちょっとからめてみた。

バレーボール観戦は好き。昨今のボレーボール中継は嫌い。しょうがないけど。世界ではスポンサーがつかない競技なのに、日本はスポンサーがつく。2008年6月に退任したルーベン・アコスタ会長は日本のテレビ局と結託してFIVBに利益をもたらした。主要バレーボール大会がほとんど日本で開催されたいたのも承知のとおり(国際バレーボール連盟 – Wikipedia)。

さておき。

監督に就任した4年前、チームはバラバラだった。見た目ばかりを気にして、食事も不規則、会話もまともにできない。負けて笑う選手さえいた。「まずあいさつをしろ」と私生活から立て直した。大舞台を知らない若者たちへ、荻野と2人で「五輪に行けば人生が変わるぞ」と口酸っぱく言い聞かせ、目標を与えた。今や、植田ジャパンに「茶髪」は1人もいない。「石島も(他の)人が決めた時に『ありがとう』が言えるようになった」と笑った。

via: 日本男子も16年ぶりアベック五輪/バレー – 北京オリンピック バレーボール : nikkansports.com

スクールウォーズ礼賛の風潮というか、こういった記事がひょっこりあらわれる。特にオリンピックに出場したりビックタイトルを獲得すると、美談が舞い降りてくる。なんで今まで報じられなかったのと訝るなんて野暮ですから(笑)

話半分としても、「あたりまえ」のことをきちんとできるかどうかって大切。”「茶髪」が1人もいない”には関係ないだろwwwとツッコミましたけど。

仕事の現場でもときおり遭遇する。

先輩と後輩を傍目で眺める

自分は仕事ができると確信している人や錯覚してる人、そんな人たちが先輩と接する態度を傍目で見る私。「(朝起きたときの口の中のネバネバ感みたいに)不愉快」とため息。言葉にしづらい。先輩-後輩の関係をウルサクするつもりはない(私はうるさい)。じゃなくて、礼節を忘れているように映る。仕事の関係の有無じゃないですよ。人と人。個人的感想です。他人がどう感じとっているかは知りません。

「仕事の取り組み方や考え方が違う」ことと「先輩のふるまい」を混同している。取り組み方や考え方が違うから先輩は悪い、と。基準は「仕事」のみ。その基準をもとに私と先輩を対等に置き、結果、「取り組み方や考え方は(私の方が)支持されている」あるいは「組織内で(私の方が)受けがいい」なんて答えを導き出し、先輩を否定する。あるいはスルー。

「仕事」だけで判断をする人は、慇懃無礼な応対を自覚しているのかどうか。私の関心はそこ。そんな人のプロトタイプは、自分より仕事ができる人には阿り、自分より仕事がでいない人には「自分の正しさ」をインストールしようとする。で、それを判断する基準は”自分”だけという極めて狭い基準なんだけど。

「仕事」で判断する人に人なき

では、記事をテンプレートに。

管理職に就任した4年前、チームはバラバラだった。見た目ばかりを気にして、ホウレンソウも不規則、対話もまともにできない営業できずに笑う部下さえいた。「まずあいさつしろ」と私生活から立て直した。大舞台を知らない若者たちへ、後輩と2人で「大舞台を踏めば人生が変わるぞ」と口酸っぱく言い聞かせ、目標を与えた。今や、管理職チームに「仲良し」は1人もいない。「あいつも(他の)人が決めた時に『ありがとう』が言えるようになった」と笑った。

先日、北島選手が「泳ぐのは僕だ」というTシャツを着ていた。そうだよね、「仕事をするのは僕だ」、仕事をするのは仕事じゃない。