雇用したことない人のパラドックス

現象学の視線 (講談社学術文庫)

先日、ある先生から経営の相談を受けた。文脈の前後や背景を省略するけど、私の稚拙な問いかけを先生なりに整理。すると、スタッフの問題が浮かび上がってきた。そこにフォーカスしてピントをあわせる。

ピントがあったとき、コンサルタントなら「人材育成」や「人事」のシャッターをきって快刀乱麻の手腕をいかんなく発揮するんだろうな。経営の問題を対処するとき、メソッドは有効かつ魔力を持つ。フルサイズやハイアマチュアのデジタル一眼レフのよう。使いこなせる腕を持つコンサルタントは問題を切り取りフレームにおさめる。可もなく不可もない。みごとなフレーム。使いこなせないコンサルタントはメソッドに助けられる。フレームにブレはあっても「きれいな写真」が撮れる。

経営者が気づいていようがいまいが、もっとつっこめば、望んでいようがいまいが、メソッドから経営の問題を浮彫にするアプローチは正しいと思う。メソッドは心血注いで開発したノウハウだ。たとえ「前提」が間違えていても「大勢」の経営者の役に立った実積を持つ。いかんせん、私はそんなスキルもタレントも持ち合わせていない。それを歯痒いと感じたこともない(といえばウソ、社会人になって数年間はあった)。

パラドックス、じゃない、アイロニーかな。「従業員を雇用したことがない経営者」に「ヒトの問題」がやってくる。このパラドックス(にしておこう)を体感した。体感の有無は余計なお世話だけどね。体感してクールにふるまうコンサルタント、体感に気づかない専門家、体感をスルーする山師、海千山千だ。

私が先生から相談を受けたとき、何を望まれているのか考えた。ありがたいことに、私を指名している。スキルもタレントもない私を承知で。だとしたら私は何をすべきか。

なぜ、どうして?———-このような問いが日常に向けてくりかえし首をもたげる。それはときに世界への別の問いと反響しあい、知らぬまに増殖し膨れあがる。そのときそれまであたりまであったことがらが次々とその自明性を失いだし、日常が次第に迷宮と化していく。日常の内部の小さなひび割れが日常そのものの全重量に対抗するものとなりかける。現象学の視線―分散する理性 P.21

「なぜ、どうして?」が絶え間なくやってくる時間に身を置いたとき、目の前の風景はカラーからモノトーンへ変わる。昨日の日常からの脱却。「なぜ」は日常の脱却をもたらし、非日常の迷宮へと誘う。だけど、おかしい。非日常の「毎日」は日常だ。

けれどもこうした一群の問いは、たいていの場合は、日常という名の迷宮の前門に頭を打ちつけ、そのとば口で踵を返してしまう。覚醒のあとにふたたびまどろみの時が訪れるように、日常への問いはやがて日常のなかに引きずりこまれ、当初の起爆力を消失させてしまう。現象学の視線―分散する理性 P.21

「問い」持って日常を対象したとたん、「非日常」の集合が現れる。日常の集合と非日常の集合は交わっていない。だけど、やがて非日常のなかに日常が侵襲してきて、再び「日常」になる。

「スタッフを雇用した先生」の「日常」は私の「非日常」であって、「従業員を雇用したことのない経営者」の「日常」は先生の「非日常」だ。本来は交わらない。また交尾しちゃいけない。心地よい緊張。

心地よい緊張がもたらされる理由は、「知っている」と「知らない」を口にしないこと。それは、「対話」の約束。今、私は、「知っている」と「知らない」の喧噪から距離を置こうとしている。経験したか否かでヒトを判断する。

「ああ、オレもむかし経験した」「そうそう、オレもその年頃はそうだった」「え、知らないですか?」

経験の呪縛。すべてのアプリオリを絶対に知覚できないアポステリオリな私。このパラドックスに包まれたとき、「対話」のとば口にたてたような気がした。私がすべきこと。それは「先生の日常を非日常にする」ための「対話」。先生が私を鏡にして「問い」を発見して、「起爆」の一助となる。

とはいえ、リアルな私の日常に目を向けるとそんなに甘くないわけで。スキルやタレントが「解決」をもたらすメソッドに対価を支払う。それがあたりまえ。10人いれば10人そうこたえると思う。天の邪鬼の私は「対話」に対価を支払う人を探してみよう。「対話」に身を削っていきたい。私の日常とあなたの非日常、あなたの日常と私の非日常、それぞれを交尾せずに何かを産み落とす行為。それは「対話」。

「あなたが知っていようが知るまいが、そんなことどうでもいい」